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コロコロ石と石作の民

土曜日, 7月 23rd, 2011

コロコロ石と石作(いしづくり)の民
飛騨川が木曽川と出会う場面が岐阜県可児市・美濃加茂市川合界隈,そこから愛知県犬山市内田・岐阜県各務原市鵜沼を通って,木曽川の中洲でもある各務原市川島までの中流域をゆったりと下ると,おおよそ20キロメートルの旅になる。その流域はいくつもの荒々しい「瀬」と「淵」が織りなすの場面でもあり,まさに変化にとんだ美しい「ライン下り」の風景が続くのである。そして劇的な空間に至る。それは木曽の流れが広大な平野部に流れ落ちる場所,私はこの平野部と出会う流域を「古代沼(つぬ)の里」と呼びたいと思っている。そこには幾筋かの小河川と台地から湧き出た泉が織りなす複雑な湿地が存在したに違いない。その複雑な「河」の流れは,時に仲間を隔てることもあるが,またモノの流れを繋げる画期的な役割をもっていた。木曽の流れは「沼の里」を起点にして広大な平野部に繋がっていたのである。

ところで地域には特徴的な素材が存在する。例えば坂祝から犬山にかけてよく見る赤色をした堅い岩ハダ,チャートの岩帯だ。実は周囲の山々もこの岩で構成されている。この堅く赤い素材を弥生人たちは自分たちの狩猟の道具として活用していた。五角形状の独特のカタチをもったヤジリの素材として使っていたのだ。また沼の里である犬山市に存在する最古の大型墳,東之宮古墳にはやはり堅いゴツゴツしたこのチャートの「赤岩」を選択して,お墓の表面に丁寧にきちんと並べ「葺石」として使っていた。そこには周囲の岩山景観との一体感が見事に演出されており,地域を一体化させるグローバルなセンスが見て取れるのであり,古代人の叡智と習俗が造り出した造形と言えよう。そしてさらに面白いのはその中に木曽川の「白い石」河原石が混じっていることです。赤岩に白ゴマのように白石が点々と混ざるのです。不思議ですね,標高140メートルの高所には河原石はありませんので,古代人がわざわざ木曽の河原から運び上げたものです。すごいです。

では何故そんな事をしたのでしょうか・・。古墳時代の木曽川中流域のお墓の造り方に,面白い共通点があります。それはまずもって「お墓の印象」です。お墓の大きさやカタチより見た目。コロコロした丸い大きな河原石をふんだんに使って,見た事もない奇妙な石のヤマとその中に石の部屋を築きあげているのです。おおきな白い河原石を巧みに組み合わせる,他の地域ではあまり見かけない風景です。中に入ると河原石がもつ白い色と丸みの調和が不思議な暖かさを醸し出してくれます。丸くて組合せにくい素材だが,今にも崩れ落ちそうで崩れない独特の工法を彼らはあみ出し,その技術を共有したのです。

可児市次郎右衛塚1号墳はその典型例であり,現在は史跡整備で復元されていますので,古代の息吹をそのまま感じることができる貴重な場面になってます。また犬山から可児にかけての丘陵に分布する,ちょっと軟らかい白石(凝灰岩)を加工して石の棺を作り出しました。河原石・凝灰岩といった地域の素材を巧みに利用した,名もなき職人たちの技が残る。古代「石作(いしづくり)」という名の集団が活躍し,その面影が中流域の各所に石作神社が奉られている。その神はタケマリネを祖と仰ぎ,尾張連(おわりむらじ)氏との深い関係が指摘されています。

さて,白い河原石。そうですね神社などで清浄な場面を作るときに必須の素材です。そこに古代人もこだわったのかもしれません。東之宮古墳の表面にゴマのように埋込まれた白い河原石,白一色の空間を造り上げた石の部屋という組物などには流域の民が長い間培ってきた,木曽の流れに対する畏敬の念が埋込まれているのではないかと思ってます。地域に残った貴重な文化遺産が,現在の私たちが忘れていた経済性では満たされない大切な何かを思い出させてくれます。

中日新聞2010-08-20(金)夕刊 掲載記事より

古代時空間アルバム

金曜日, 7月 22nd, 2011

古代時空間アルバム
郷土の埋もれた文化遺産。愛知県には驚くような不思議なモノたちや,謎に満ちた驚異の遺跡がまだまだ眠っている。一見,現代の生活や街並とまったく無関係だと思うでしょうが,それはちょっと違うかもしれない。古代のモノ・出来事だといって無視するのはもったいない。ひょっとすると,地域力を蘇らせる魔法のアイテムになるかもしれない。したがってまずはご自分でそのモノたちに出会う必要がある。ではどうしたらそうした情報を手に入れることができるか。それがとても簡単なことなのです。

愛知県埋蔵文化財センターのホームページを訪ねていただくだけで良い。そこには,ここだけしかない「古代時空間アルバム」というコンテンツが用意されています。遺跡から出土した器や発掘風景などの写真が約20000点,他の地域を圧して余ある物量で,しかも無料で体験できる。いつでもどこでもどんなデバイスでも,インターネットにつながっていればOK。お手軽ですので,一度ぜひお試しいただきたい。さらに検索された項目から,次々に遺跡や遺物にたどり着くことができます。ひょっとして驚きの出会いが待っているかもしれません。
さて具体的にその方法を見てみましょう。まずwww.maibun.com/topへログイン。

すると,愛知県埋蔵文化財センターのホームページにアクセスできます。そのトップ画面の左上に「考古学アーカイヴ」という項目がありその下に「遺跡アルバム」というボタンがあります。これをクリックしていただくと,検索画面になります。「遺跡名」と「内容」という項目がありますので,何でもいいのですが,例えば「内容」というボックスに「円窓」という言葉を入れてみましょう。すると・・・画像の中に検索項目と関係しそうなモノたちが選択されます。奇妙な壺やその仲間たちがたくさん出てきますね,壺の中央に大きな穴があいている。

実はこの壺は愛知県清須市に存在する「朝日遺跡」という県内最大級の弥生遺跡から見つかる謎の土器です。面白ことにこの壺は朝日遺跡以外にはほとんど見つかっていない。また土器を焼く前に大きな穴を開ける理由も,その用途もまったくわからない・・ヘンテコリンな器なのです。しかし見方を変えると,ここにしかない優れたデザインでもある。であるならばこのカタチを街並アート・街路灯にして,街を一気に亜空間にしてしまったらどうだろうか・・。
遺跡からの情報は,他に類例を見ない特徴的かつ重要な地域共有の財となるモノです。そして一番の特徴は,直ちにその地域の風土にあったデザインに変身できるという優れた特徴をもっている点です。何たって,そこから発見されたのですから・・。遺跡アルバムに掲載されたモノたちは,未来への地域社会の歴史・文化の礎を築き,豊かで楽しく個性的な地域を作っていく上で重要な役割を担っていくものと確信しております。

地域独自の取り組みが求められている現代,私たちが提供する時空間アルバムを活用する時が近づいていると思っています。この地域にしかない優れたデザイン,古代の叡智を観じる場面を発掘資料から街々に,現代に蘇らせるのです。

『月刊なごや』no.329 2010-02より

禽獣の鏡を鋳だす王

金曜日, 6月 24th, 2011

禽獣(きんじゅう)の鏡を鋳だす王 ー前編ー

はじめに

国宝犬山城から東側を望む,するとそこには各務原から続く美しい山並みが連なり,やがて木曽川をはさんで白山平(はくさんびら)に到達する。山麓には瑞泉寺の塔頭群とあい重なって,現在の成田山名古屋別院「大聖寺」が見えるが,その標高143メートルの白山平山頂には,国史跡「東之宮古墳」が存在し,古代邇波(にわ)を象徴する大王墓が今でも完全な形で残っているのである。この東之宮古墳は日本列島の古墳文化を考える上で,重要な学問的な位置を占める古墳として評価されているのであるが,特に興味深い点は,今回取り扱う奇妙な鏡が出土している事である。鏡は,王が眠る竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)からは11面の鏡が発見されたが,その内の4面が前代未聞。それまで誰も見た事がない,驚くべき異質な鏡であった。我々はその鏡を「人物禽獣文(じんぶつきんじゅうもん)鏡」と呼んでいる。東之宮古墳で見つかった11面の鏡は,最新の研究成果からは,中国鏡である斜縁神獣鏡1面,中国製か日本製か議論のわかれる三角縁神獣鏡が4面,その他の日本製である倭鏡が6面という構成になる。そしてその倭鏡6面の内,実に4面が人物禽獣文鏡という特殊な鏡群であり,東之宮古墳の副葬品を特徴づけているのである。今回は,この奇妙きてれつな鏡にまつわる物語を,整理しておくことにしたい。

人か獣か,はたまた精霊か

人物禽獣文鏡とは,呼んで字のごとくであり,鏡の裏面に鋳だされた文様が,ヒトと禽獣,つまり人のようなモノとトリやケモノのようなモノがめぐる鏡という事である。そこで4面の鏡を一つ一つ注意深く見ていくと,誠に奇妙で「何だろうか」と思うような大変面白い文様があちこちに見えてきて,ほんとうに楽しくなる鏡でもある。ここでその特徴的な文様を,鏡の中から選び出してみることにしょう。

まず「ヒト」であるが,人と呼ぶにはあまりにも奇妙なカタチをしたモノもあるが,とりあえず「ヒトたち」がいる。多くは両手をあげて「万歳」しているようにも見えてくる。面白いのがこのヒトのカタチが連続して配置される場合もあり,言ってみれば一つの文様になっているようだ。次に「ケモノ」であるが,これまた何ともいえない不思議なカタチをしている。ヒトとケモノが区別がつかないものもある。どうやら基本形はS字状の芋虫のようなカタチで,顔や体,手足といった明瞭な表現はほとんどなく,変幻自在な芋虫文と呼んでもよいかもしれない。次に「魚」だ,これは比較的わかりやすい表現で,尻尾が大きく,魚が元気に跳ねているような表現も見られる。このように人物禽獣文鏡の主文様はヒトとケモノ,加えて魚であるが,これらを組み合わせ,その間を多様な文様で複雑に充填している点が,この鏡群の特徴であり,そこに独特の世界が表現されているといえよう。

では,古代人は何をイメージして,どこで誰が,このような奇妙な文様を鋳だしたのだろうか・・。

最古の倭鏡

日本列島に住まう我々のご先祖が,はじめて鏡を自らの手で作り上げたのは,弥生時代の終わり頃である。大陸からの「鏡」を見よう見まねで作り上げたもので,お手本となった鏡に鋳だされた文様の意味までは,ほとんど意識していなかった。ところが,三世紀の古墳時代になると,古墳の副葬品に鏡が大量に用いられはじめる。倭人は鏡好きな民族だったようで,大陸から数多くの鏡がもたらされた。そして古墳の副葬専用に,オリジナルな日本製の鏡が作られ始めるのであるが,その極初期段階の鏡が,東之宮古墳では6面も含まれているから驚きである。これらは弥生時代の鏡とは大きさや質・デザインが大きく異なり,本格的な倭鏡製品としての第一歩の作品群と位置づけて間違いない。しかも優れた作品が多い。

ところで「古代邇波の里」内で最も古い倭鏡を捜すと,それは大口町余野遺跡群から出土した鏡をあげることができる。現在大口町歴史民俗資料館に展示されているものであり,列島のどこかで女王卑弥呼が登場する時代,まさにその西暦2世紀後半段階のものと考えておきたい。ちなみに余野鏡に鋳だされた文様からは,巫女の鏡であるという評価がある。

東海の鏡

さて東之宮古墳の倭鏡は,いったいどこで製作されたのであろうか。この問題の謎解きに一石を投じているのが,実は人物禽獣文鏡群であるのだ。なぜならば,これと同じ仲間の鏡は,ヤマトや近畿地域にはまったく見つかっていない。日本列島で数多く鏡が出土するヤマト地域ですら,見えてこない鏡である。そこで人物禽獣文鏡と同じ系列の鏡を捜すと,東之宮古墳で4面,他に岐阜県内で2面の合計6面の鏡が見つかる。ただしもう少し似たような鏡は,さらに2面加えることができる。そのうちの1面は,ヒトが描かれた数少ない鏡でもある「狩猟文鏡」にたどり着く。狩猟文鏡とは群馬県高崎市出土として伝わる鏡で,鏡背には槍や弓矢をもち,何やら怪しい踊りを繰り広げる踊り手たちが鋳だされた,摩訶不思議な鏡のことである。

どうやら人物禽獣文鏡とその仲間の鏡は,この地域とその東の国にだけに分布する特殊な鏡である可能性が高いということになる。さて,それは何故なのか・・。そしてそうした不思議な鏡をたくさんもっていた東之宮古墳の王とはいったい何者なのであろうか。(つづく)

 

 

禽獣(きんじゅう)の鏡を鋳だす王 ー後編ー

「棺」中に置かれた鏡

さて,前回までのお話から東之宮古墳の人物禽獣文鏡(じんぶつきんじゅうもんきょう)をまとめてみると,まずこの種の「ヒトとケモノが鋳だされた鏡」は,どこにも分布しない特殊な鏡であるという結論にたどりつく。また日本で本格的に鏡生産がはじまった3世紀ごろの,大変貴重な初期倭鏡でもあった。いずれにしても人物禽獣文鏡という特殊な鏡は,東之宮古墳から多く見つかっているのであるから,彼と深く関わる鏡である事にかわりないようだ。あるいは彼の意思,メッセージがそこに込められた鏡であるといっても過言ではない。実はその決定的な証拠がある。

それは東之宮古墳の竪穴式石槨からは11面の鏡が発見されたと述べたが,その配置から見ると10面と1面の組み合せになる。つまり10面は王が葬られた石槨内ではあるが,その中に安置された木棺の外側にまとめて配置されていた。10面の鏡は棺の外側に置かれていたのである。つまり残る1面だけが,棺の中にあった。その棺の中の唯一の鏡が,三角縁神獣鏡や中国鏡といった一般的に評価の高い大型鏡ではなく,他にどこにも類例がない「人物禽獣文鏡」なのだ。この時代の多くの古墳と比較すると,それは例外的な事例であるといえよう。

東之宮古墳の人物禽獣文鏡はA・B・C・Dと四つの鏡が存在する。棺の中の鏡は人物禽獣文鏡の中で最も古い「A」鏡であった。つまり東之宮古墳の王は,最古の人物禽獣文鏡を自らの棺の中に据え置かせたことになる。他の鏡を排して,禽獣の鏡を死せる手元に置いたのである。おそらく彼が一番大切にしていた鏡であったことは想像に難くない。

東之宮古墳に眠る王の強い意思により,どこにも類例のない不思議な鏡群がこの地で製作された。そして自らの手で鋳だした禽獣の鏡への思いを込めて,棺の中に配置したのである。

「ヒト」表現

人物禽獣文鏡の特徴は,やはり何と行っても奇妙なヒト表現にある。ヒト表現は大きく二つに分類でき,片足をあげて踊るような表現をもつ「ヒトa」とこれまた前代未聞の奇妙な怪人文「ヒトc」。ところで,ヒトaからヒトbが生み出されるのであるが,それがやがて一つの文様となり,最後の禽獣文鏡である四つ目の「D」鏡で,鏡の「単位文」にまで進化する。ヒトabは徐々に小さく簡略化されていき,同時に表現されるヒトが増加する。両手を上げ万歳をしているような表現が基本形のようにも思える。面白いことに第3番目の「C」鏡では,ヒトが踊るような表現を見せ始めている。一方でヒトcは第2番目の「B」鏡だけに見られる特殊な表現といえよう。ただし,五島美術館蔵鏡の中に比較的良く似た鏡が一面だけ存在する。注目したい。

ケモノ表現は三つに分類でき,ケモノaは芋虫状の表現で,やはり簡素化へ向かい,レンズ状文と呼ばれる小さな膨らみ状の表現へと同化する。最も注目したいのがケモノbである。それは第3番目の「C」鏡でしか見られない表現であり,まさに踊るヒト表現と共に動きのある表情を見せている。「C」鏡は,人物禽獣文鏡の傑作と呼んでも過言ではないほど素晴らしい作品である。ケモノcは,くちばしと首を反り返える表現が見てとれるため,ここでは「鳥」表現と考えておきたい。鳥とすればこの鏡群中では唯一の表現となる。

さて,一方でもう一つの表現が「魚」である。これは他の意匠と異なり,新しくなるにつれて簡素化するのではなく,逆に表現が豊かに,大きく表される。あるいは身近で現実的な生き物と,そうではないモノたちとの表現の違いを読み取ることができるかもしれない。

邇波(には)の「はじめの王」

以上,東之宮古墳から出土した不思議な人物禽獣文鏡について見てきた。東之宮古墳の王が眠る棺の中に唯一配置された鏡は,出来の良い中国鏡でも大型の三角縁神獣鏡でもなく,ここにしか存在しない特殊な鏡である「人物禽獣文鏡の最古鏡」であった。その分布やデザインから,ここ邇波の里で独自に製作された特殊な鏡であった可能性が極めて高い。そして鏡に鋳だされたモノたちは,次々に進化し,人物禽獣文鏡第3番目の「C」鏡において,その傑作とも呼べる優れた作品を生み出すまでに至る。動きのあるヒトとケモノ,トリやサカナがうごめく森羅万象。あるいは清流「木曽」河の景色を時空ごと切り取り,鏡の中に封じ込めたものかもしれない。現代,私たちが忘れかけている美しい郷土の風景を,時代を超えて伝えようとしたのだ。するとその意図は,いったい何だったのだろうか。

三世紀から四世紀にかけて,古代邇波の里にはおおむね四代にわたる大王墓が造られた。すなわち東之宮古墳・青塚古墳・坊の塚古墳,そして妙感寺古墳である。それぞれの王や彼をささえた民衆が夢見たモノ,そして未来に伝えなければならない大切なモノがあったはずだ。多くの伝承が消えては生まれ,その歴史の中に彼らのメーセージが息づく。

一枚の不思議な鏡,それは時空を超えて伝えなければならない大切な何かを,私たちに教えてくれているのだと思う。邇波の最初の大王墓「東之宮古墳」は,まだまだ我々の計り知れない謎に包まれた存在でもある。その事に気づく瞬間,その時と場面を静かにまっているのかもしれない。

「史と詩の町から」vol.11-4&12-1 より

文化遺産の見える街づくり

木曜日, 1月 6th, 2011
見えるランドマーク
犬山城下町から見えるお城の天守,ご存知のように国宝犬山城です。知名度も抜群であり,木曽川流域に点在する文化遺産の中でも突出した存在であることは間違いない。いくつかの方向から望み見ることができ,ランドマーク的な存在でもある。ここで言うランドマークとは,ある地域を象徴するような特徴的なモノ,それが記念碑や建物、あるいは特異な空間を意味する場合もあろう。まあ,平たく言えばその地域の中で目印となるような特徴的なモノだ。人によってはモンキーパークの観覧車もそうかもしれない。あるいは古くからのこの地の神々を奉る本宮山や尾張富士もその仲間である。
このように場所,場面や人や目的によって多様な対象が相当する。しかし問題はむしろそうした特定の場所への案内役というものではなく,その街のイメージを決定付けてしまうほどのインパクトをもつ存在性が重要です。その地の空間を強烈にカタチづくってしまうほどのパワーを秘めたもの。犬山のお城はそうした要素を備えていることは周知のことでもある。では・・・他にはなにがある。
イメージするランドマーク
さて,犬山城から木曽川を左手に見ながら,東側を望むとちょうど正面に成田山名古屋別院がみえる。よく見るとその山頂が何かこんもりとして高まり状になっているのを気づいたヒトがいれば,ありがたい。そうです,ここに「国史跡東之宮古墳」が存在しています。今から一七〇〇年以上前に人の手によって築かれた記念物だ。東之宮古墳とは古墳時代はじめの七〇メートルクラスの大型の前方後方墳で,木曽川水系では最古の大型古墳である。つまりこの古墳の造営から,犬山,尾張の古墳時代がはじまったと言っても過言ではない。犬山城より高く,白山平(はくさんびら)山という標高一四三メートルの山頂であって,犬山市域はもとより対岸の各務原市域も含めて広くからその位置を確認することができる。広域のランドマークといえよう。そのカタチは,現在は山そのものであるから古墳なのか単なる自然の形なのかわからない。しかし山頂が人工物でできあがっているという事を知っていると,白山平山頂の不思議なカタチの意味が見えてくる。すなわち意識すること,あそこに最古の大型古墳が造られ,この地を最初に律した偉大なる王が存在した事を知らしめるモニュメントであると・・。このように見えないランドマーク,意識しないと見えてこないモノがある。しかしひとたびイメージするとその場面を含めて太古の世界が広がっていく。犬山の地を,はじめて豊かな場面にかえる,壮大な事業を成し遂げた古代の英雄たちの姿が見えてくる。そうです・・・イメージする楽しさ。
四次元空間への旅立ち
我々が生活する三次元の世界,見えるもの,触れるもの,香るものが混在する面白き世界が広がっている。日々の生活の中に,楽しさや悲しさが入り交じりそれぞれの歴史を刻んで行く。そうした日常性の中に,我々はもう一つの次元を追加する事を提案している。それは歴史という「時間」です。同時にその事を常に意識し,感じるモノを全て受け入れる。異なる文化や不可思議な出来事。それらをその地域の歴史であると思うと,そこに豊かさやその地域がもつ本物の姿が見えてくるはずです。だれかが作り上げた見てくれの姿ではない,一過性のイベントとはまるで異なる,深みのある映像が映し出されるのです。時間の中に埋没して見えなくなってしまったモノたちが蘇る。伝統的なお祭りはその典型的な瞬間かもしれません。地域の遺伝子がおのずと動き出すから,老いも若きも境なく楽しめるのです。そして心に残り深く深く沈殿し,その地域を一瞬にして印象づけてしまう。そんなものは他にありません。文化遺産がもつ偉大なるパワーだと思ってます。きょうから・・・四次元旅人になろう。
文化遺産が見える,コンセプト
地域コミュニティは、教育・防災・福祉・生活環境など、あらゆる分野で地域の根幹をなすものですね。でもその地域の絆を,どのようにして維持していくのかが今まさに問われている時代だと思います。そこで,地域に残る・守られてきた多様な文化遺産を生活の中心にすえ,それらを多いに活用することで,豊かで楽しい地域社会を復活・維持していくことができると考えます。
ただし,文化遺産は次の時代の文化の発展のために継承されるべき重要な地域の財産でありますが、近年の急激な開発や世代の交代により、そこに存在した理由や価値が急速に失われつつあります。これらは地域固有のものであり、一度失われてしまうと復元することは容易ではありません。後悔しても取り戻すのは難しい。この大切な地域歴史資源を守り育てて行く事が「文化遺産のみえる」まちづくりの基本理念です。私たちはこの活動を通じて地域に貢献していきたいと思っています。
「史と詩の町から」vol.11-3 より

歴史レイヤー構想

水曜日, 1月 5th, 2011
現代に生きる古代人
日常性からはとても考えられないほどの太古の歴史,それは絵空事のようで,現代の我々からほど遠い存在のように感じる方も多いと思う。しかし,時に,突然,恐ろしいくらいの古い古い歴史がふと蘇る場面がある。それはヒトの心の奥底に横たわる遺伝子的な響きと考えてもよいかもしれない。
例えばある神社に伝わる神事,その言葉や所作,あるいは周囲の空気に触れた瞬間,間歇泉のようい古代人が思い描いた気持ちが何となく理解できるヒトがいる。いや感じるといった方がよいかもしれない。街に残る巨木,その孤高ともいえる姿に触れた瞬間に,ここで繰り返された庶民の生活が,走馬灯のように蘇るヒトがいる。私たちはその気持ちを抑えきれず,素直に受け入れる面白い機能がある。その強さはヒトにより大きく異なるが,間違いなく誰にでも太古の歴史を心の奥底にしまい込んだまま,気づく事無く日常性を送っている。実は僕たちの古代人は心の奥底で,じっとその出番を待っているのだ。
まず,第1のミッションは現代に生きる「古代人を探せ」
災害を知る遺跡
発掘調査をしていると,時に洪水の跡や地震の痕跡に出会うことがある。濃尾平野での調査では,むしろよく見つけることができる。ただ,洪水や地震の時期が古代まで溯れる場合は稀である。興味深いのはたとえば襲ってきた洪水にいかに対処したかという軌跡が,そこに残されている事です。どうやったらその後に洪水からムラを守ることができるのかという答えがそこにある。つまり古代人の叡智がその遺跡の中に刻まれているのだ。これは凄いです。現代に生きる我々はその古代の叡智をおろそかにしてはいけない。
そしてさらに面白いのは遺跡が存在する場所だ,それはその立地が古代の人々に取って最も心地よい場面であったとまずは考えて良い。さまざまな過去の経緯を踏まえてムラをそこに作り上げてきたのです。鎮守の杜はここにあり,ムラの共同墓地はこの方向のこの場面に位置づける・・といった具合にです。ムラの設計図は,このようにさまざまな過去の尊い歴史を踏まえたものである。したがってそこに遺跡が存在する事,それは地域の歴史そのものであり,ヒトがこの場所ではどこに住まうべきかを教えてくれていると言ってよい。遺跡が存在する所,災害から身を守る手掛かりがある場所。それは素晴らしい場面であると思います。
第2のミッションは,「遺跡を見つけろ」
木曽川は存在しない
私たちが目にする木曽の流れは江戸時代になってから,治水対策の一環として幾つかの支流をまとめ本流に一本化したものであることは周知の事である。したがってそれ以前の犬山扇状地の風景は,まさに扇の要である犬山から木曽の流れが幾筋の河川に分流し,扇状地を網の目状に流れていたはずである。その痕跡が今でも扇状地の上に凹みと高まりとなって残っている。私たちの住んでいる場所を歩いて見ると,微妙なアップダウンが感じられるはずだ。そして扇状地の上は河原石が堆積する場面であり,水は地上から地下に浸透する。そして時に泉となり湧き出る。したがって大雨を除いて,日常的には河の水は今の木曽川のように悠然とした流れを想像することは無理であろう。むしろそこには,美しき湧き水文化が存在したと考えたい。犬山を中心とした古代邇波(にわ)の世界には,こうした風景が広がっていた。その場所に存在する様々な歴史を身近に感じ,意識してその風景を想像するととても楽しくなる。刻々と移り変わる時間の流れに身を任せて,歴史空間を漂うのです。
第3のミッションはそこにある「古代の風景を感じろ」
拡張現実と歴史レイヤー
さて,皆さんが住んでいるその場所,かつてはどうであったのか。
そこは森ですか,沼ですか,あるいは川の中・・。鎌倉時代の集落ですか,江戸時代の街道が通ってますか,古墳が近くにありますか,そして鎮守の杜はまだ健在ですか。これらを知る事が重要です。なぜならば未曾有の災害から身を守る手掛かりがそこにあるからです。歴史が積み重ねてきた幾つかの層,レイヤーを考えてみましょう。なぜそこにお地蔵様が存在するのか,なぜそこに巨木が存在し,守られてきたのか。なぜそこに道標が立ち,水路が掘削されたのか。大きな古墳が造営された意味はなになのか,弥生時代のムラ(遺跡)がどうしてこの街の下に眠っているのか。多くの場合は,それは偶然ではありません。そこには歴史レイヤーが積み重ねられ,やがで「平成」という時代を迎えただけなのです。私たちはそれを知らないだけです。その意味を知り,街の歴史を踏まえた生活空間を作り上げる必要があります。それはどこにもない,ここだけの特徴的な時空間になるのですから,安全で無理の無い街,世界に一つしかない街を取り戻す事ができると思ってます。歴史レイヤーに様々な過去の出来事を語らせる仕組みは,最近では比較的簡単にできてしまいます。そうですインターネットやGPS,通信技術をつかって現実を拡張してやればよいのです。私たちNPO法人は,街の皆さんといっしょに,できれはその仕組みを作っていきたいと考えております。

「史と詩の町から」vol.11-2 より