狗奴国の幻影を求めて

はじめに

 

東西の民族的とも言える境界線が存在する。

早くは宮本常一が指摘し、大林太良や網野喜彦らが提示したものである。そこには日本列島中央部の東海を境にした東西の文化的な差違も含まれていた。そしてその違いは、生態学的な立場に帰結できるようでもある。ともあれ風土性ということであれば、植生など環境・気候の違いへと広がる。こうした数千年以上にわたる東西の違いは、現在の我々の土地観にも受け継がれているように思われる。ここでは歴史を観じる視座をこのあたりに置くことから出発したい。

二・三世紀の列島中央部においてすら、決して均一的・等質的な文化が存在したわけではない。近年の考古学成果はこれらの点を明確に伝えはじめている。

ここではその結節点ともいえる伊勢湾沿岸部に去来した、一つの部族的な大集団を描いてみることにしたい。それが邪馬台国に反旗を翻した幻の王国(狗奴國)の姿であったのかを断定する手段を持ちえないが、有力な候補地である点は動かないものと思っている。

 

土器様式が描く郡的規模

 

二・三世紀の伊勢湾沿岸部の土器様式を概観すると、従前の想定に反して多様なまとまりが存在することがわかってきた。そのまとまりを大きく捉え直すと、旧郡を複数まとめたほどの地理的範囲が浮き上がってくる。それはかつて都出比呂志が通婚圏を想定した「郡的規模」に相当する。ここでの重要な点は、こうした地理的な生活感覚範囲は、時代を超えてつながり、大きく変動することは少ない。ここではこうした不動の地理的・環境的な範囲である郡的規模を基本単位として、地域社会を考えていきたい。

さて、郡的規模のまとまりはわかっている範囲で伊勢湾沿岸部に数十存在する。基本的に土器様式の最小単位をこの規模に設定することが必要と思っている。そしてそこにはそれぞれに土器様式が存在すると想定しているが、未だその様式設定ができない地域も多い。今後の研究に期待したい所である。さて我々は、一世紀前後の尾張低地部に存在する土器様式を「山中様式」と呼んでいる。その後半期には西三河には川原上層Ⅱ式が、東三河南部には寄道式、西遠江には伊場式といった様式が併存し、加えて美濃中部や北伊勢地域にも独自の様式が存在することがわかってきている。東海といってもその中身は多様な地域社会が織りなす集合体でもある。

 

SK七十三様式の登場

 

ところがこうした状況に、一つの転機が訪れる。二世紀前半、尾張低地部に登場した廻間様式の誕生である。S字甕や小型精製土器群などに特色が見られる。一宮市八王子遺跡のSK七十三から出土した一括資料がそのはじまりを教えてくれるものである。そして重要な点は廻間様式の誕生以後、伊勢湾沿岸部の各土器様式はおおむね廻間様式を模倣する形で、大きく変化を遂げる。実はその前兆は山中様式の後半期(山中Ⅱ式)にすでに認められる。こうして伊勢・志摩・美濃・三河・西遠江、さらには近江地域にまで広く、土器の形に郡的規模単位で、模倣と相互置換が繰り返される。そしてやがて廻間様式に代表される多様な有段口縁甕と有段高杯、加飾性を保持した壺類、そして精製土器群といった器種構成が確立する。

 

泉の儀式

 

一宮市八王子遺跡SK七十三出土の一括資料をもって古墳時代のはじまりと考えている。

発見された地区から大変興味深い遺構群が見つかっており、その風景を復原して見ることにしたい。

人々が日々の暮しを送る集落とはやや離れた場所に、巨大な建物が建っている。おおむね幅十メートルほどで四面に庇をもつ寄棟の大型建物が一棟だけ存在する。そしてその周囲には何も存在しない空間が広がり、南北百メートル東西五十メートルの大きさをもつ。ちょうど学校の校庭ほどの大きさの空間の真ん中に、大型建物が一つだけ存在する。そんな風景であったと思われる。そしてその南に面した場所には窪地があり、その縁に、幅五・六メートルほどの水路が流れていた。また岸には径五メートルほどの大きな泉(井泉)が存在する。昏々と湧き上がる美しい水は、南側の堰から水路に流れ落ちる。調査では泉の周辺から大量の土器や木製品・銅鏃や玉類が出土した。SK七十三出土土器は、中央の大型建物周辺で一括投棄された土器群である。この不思議な空間で執り行われた儀式に使用された品物であることは想像に難くない。台付甕にはススが付着しており、実際に使用されたことがわかる。一方で泉の周辺から出土した大量の土器にはこうした痕跡がほとんど見られない。使用された甕が存在しないのだ。中型壺や小型品が多数を占める。大変作りの良い中・小型の壺や高杯が主体であり、木製品には槽や剣形などが見られる。泉の土器群とSK七十三出土品とは異なる儀式内容が読み取れる。さらに後者は廻間Ⅰ式初頭段階の極めて限定した時期幅をもつのに較べて、前者の泉の土器は今少し幅をもった遺物群(廻間Ⅰ式前半期)でもある。いずれにしろこの生活空間の匂いがしない場所で、いったいどのような人々が集まり、何を執り行ったのであろうか。

 

鳥の人面文

 

この空域ではさらに興味深い品物が発見されている。大型建物の西南に存在した土器処置場としてのSK七十三近くで、竪穴住居状の施設が見つかっている。その中からL字状の石杵が出土した。また、谷をはさんでその南側からも石杵と、内部に水銀朱が付着した片口鉢が見つかっている。一方、泉の周辺では、鏡を模した小型の土製品、水路の周辺では人面文が描かれた鳥形木製品などが出土している。神仙思想を彷彿させる朱の道具類、最古の鏡形土製品。そして鳥を形どった人面文の存在。

人面文は設楽博己の研究を契機に、東海地域の一つの風俗として認識できるまでになったきた。天野暢保が強調するように形の決まった「人面文」として象徴化したデザイン性に意味を持たせることが重要と考えたい。その最古の資料が八王子遺跡から出土した鳥の人面文である。本来が板状のものに刻まれた人面文を鳥形に加工したものと考えることができる。

ここで執り行われた儀式には、東海地域を代表する文物や道具が用いられ、伝統的な風習を高度にデザイン化した内容にまで昇華したものであったに違いない。加えて大陸文化の片鱗すら看守することができる。

 

萩原の里

 

ところで一宮八王子遺跡の謎解きには、濃尾平野の地形的な景観とこれを取り巻く遺跡群の理解が不可欠である。図四に示したように八王子遺跡は萩原遺跡群と呼ぶ全長三・四キロメートル、幅〇・六キロメートルに及ぶ巨大な遺跡群内に位置しており、その最北端の遺跡である。複数の河川が複雑に絡みあい、その微高地上に遺跡が点在する。この地は犬山扇状地の扇端部付近に位置し、周囲には無数の湧水点が存在した。扇状地の伏流水があふれ出る豊かな場所でもある。ところで萩原遺跡群は弥生時代前期から集落が点在しはじめ、中期になると中央部の二タ子遺跡を中心にまとまり、後期から古墳時代にかけては、その南北に集落域が拡大するような傾向が読み取れる。最南端には、後の「中島郡」の中心的な場所になる中島遺跡が所在し、北辺部には後期の標識遺跡である山中遺跡が所在する。八王子遺跡の長方形区画は、こうした地理的環境を背景に、弥生時代に脈々と受け継がれてきた萩原の里の最北端に出現した。

 

巨大なイベント会場

 

大型建物周辺から出土した遺物群を観察する限り、一過性の単発的な儀式場であった可能性が高いことになる。こうした大型建物と泉を伴う一過性の場の設定は、弥生時代には見られないものである。そしてそこに用いられた様々な道具立ては、最古のS字甕や人面文、小型の精製土器群、模造品など古墳時代を読み解く重要な道具であった。その多くがこの段階で新たに発明・採用されたものである。別の見方をすれば東海的な仕様が定まったとでも言えようか。この特別な儀式に参列した人々は、おそらく濃尾平野の湿原の民のみならず、伊勢の海を生業とした多くの人々でもあったに違いない。したがって伊勢湾沿岸部の各部族の代表が参集したイベント会場の姿を想定したい。そこで執り行われた儀式は、伝統的な風習に則っとり部族の繁栄と、伊勢の海と湿原の豊かな恵みを祈ったことであろう。そしてこの共同性を実現するための力強いリーダーが選び出されたに違いない。大部族長の選出である。今まさに、群的規模をはるかに越えた地域的結合体に変貌しようとしていた。それが八王子遺跡と考えたい。

 

雲出の砂つぶ

 

八王子遺跡で採用された新しい道具。それはいままでの伝統的な煮沸具・台付甕の常識を覆すものであった。本来、S字甕の祖形は、伊勢中央部を流れる雲出川流域の伝統的な様式の中で育まれたものである。しかしそこからS字甕への進化には、台付甕製作技法の画期が存在する。台部の製作や補充技法、独特なハケメなどなど。そして最も重要な点は軽量薄甕への志向性である。そしてさらに混和材としてある特定の砂粒を使うという仕様。つまりS字甕製作には雲出の砂粒を使わねばならないという強い規制の確立である。これは風習というよりも宗教性に近いかもしれない。では何故雲出の砂粒なのか。おそらくその誕生にまつわる神話にあるように思われる。その中身は計り知れないが、ただ、松阪市片部貝蔵遺跡の複雑に入組んだ河道と堰の組合せの中に、砂粒採集の儀式場を想定することも可能と考えている。いずれにしろ二世紀から三世紀にかけて伊勢湾沿岸部に流行したS字甕は、その製作に特定の砂粒を混ぜるという共同性が確かに存在する。そしてその風習が最も強く働く時期、それがS字甕が濃尾平野から伊勢沿岸部の各集落内に広く採用される段階であり、かつ東海系が動き出す瞬間でもある。伊勢湾を取り巻く人々の間に、同じ道具を共有し、その神話を共有するという伝統性が創造された。

 

東海系のトレース

 

暦年代では西暦二百年前後、東海系文化が主に東海・東山・北陸道に向かって拡散する。第一次拡散期と呼んだ現象である。すでにこの段階では八王子遺跡で想像した部族間の共同意識は、後の「東海」という地域に拡大していった。より強い部族意識の高揚が、それまでの弥生時代以来の伝統的な地域社会の枠組みすら変容させようとしていた。具体的には伊勢湾沿岸部の集落動向から容易に読み取ることができる。すなわち弥生中期・後期以来の集落の多くがこの段階で消失していくのである。三重県松阪市の阿形遺跡や草山遺跡、愛知県清洲町の朝日遺跡など枚挙に暇が無い。新たな枠組みを模索し、具体化していったものと推測したい。こうした段階に、東海系文化が古くからの伝統的な交易ルートに導かれながら、東の国々をめざし旅立って行く。彼の地では東海的な風俗や風習に影響されながら、やがて自らの伝統的な地域社会を改変する力強い動きとなって表面化していく。その動きは、比田井克仁や西川修一らの研究成果から、一様ではなく、関東地域での群的規模単位でかなりの偏差が存在したと考えたい。結果として東海系文化は、その東国の変動に参画していくことになる。

 

前方後方墳

 

二・三世紀は地域型墳丘墓の時代と考える。各地には弥生時代以来、独自に発展した墳丘墓が存在することがわかってきている。円形を基調とする区画墓は、宮崎平野や大阪湾沿岸部、さらには長野県の善光寺平や群馬県南西部などで確認されている。それぞれの円形志向には地域独自の形や造営理念が存在するようでもある。山陰地域には四隅突出型墳丘墓が見られ、北近畿には台状墓と呼ばれる丘陵を巧みに利用した独自の墳丘墓が存在する。一方で、方形を基調とする墳丘墓の存在は列島内に多く認められる。特に東日本には弥生時代後期以降になると、広く方形周溝型が一般化するが、中にはこうした区画墓を採用しない地域も存在する点は留意したい。

さて、前方後方形は弥生中期末頃に方形周溝の一辺のほぼ中央部に陸橋部をもつものが見られるようになる(図五のB1型)。その後に中央部に存在する陸橋部付近が拡張し、周溝の形に変化が見えはじめる(B2・B3型)。前方部への進化がはじまる。伊勢湾沿岸部である東海地域ではこうした前方後方形の墳丘墓が各集落内の墓域にほぼ例外なく普遍化し、やがて前方後方墳(C型)へと大型化していくことがわかってきた。その形態は後方部はほぼ正方形を志向し、狭く引き締まったくびれ部から大きく拡張する前方部が取りつく。こうした東海型の前方後方形の墳墓が、東海系のトレースを契機に列島規模に普遍化したと考えたい。

 

悪神の國々

 

東海的な文物や風習が二・三世紀に強く表面化する。そして三世紀初頭、東海的な文化が一つの風潮として列島各地に共鳴することになった。特に東海以東の國々にはこれまでの古いつながりを基調にして浸透していった。東日本を代表する墳丘墓としての、前方後方墳の普遍化はその象徴的なものである。独自の風習をもち、しかもそこにS字甕で確認した強い神話が作られた。こうした邪馬台国時代の伊勢湾沿岸部のかたまりは、まさに列島西部の倭人から見れば、風俗性が異なる「悪神」たちが住まう異境の國となろう。しかもそこには広大な東日本社会が背後に控えているという恐怖感が存在したに違いない。狗奴國の幻影を、まずはこうした民族性の差に近い、伊勢湾沿岸部の独自な風俗性に求めてみたい。(赤塚次郎)

『東海の弥生フロンティア』平成17年春期特別展 弥生文化博物館より2005

参考文献

大林太良「日本の文化領域」『風土と文化』日本民族文化大系一小学館一九八六

都出比呂志『日本農耕社会の成立過程』岩波書店一九八九

吉田晶『卑弥呼の時代』新日本新書一九九五

西川修一「東・北関東と南関東」『古代探叢』Ⅳ 早稲田大学出版部一九九五

網野喜彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫一九九八

樋上昇編『八王子遺跡』愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第九二集二〇〇一

赤塚次郎「男王、卑弥呼と素より和せず」『三国志がみた倭人たち』山川出版社二〇〇一

比田井克仁『古墳出現期の土器交流とその原理』雄山閣二〇〇四

設楽博己「線刻人面土器とその周辺」『国立歴史民俗博物館研究報告』第25集一九九〇

金森康明・天野暢保「愛知県神門遺跡の人面文土器について」『考古学フォーラム』一〇 一九九八

『弥生水都二千年』一宮市博物館企画展図録二〇〇四

Tags:

Comments are closed.