コロコロ石と石作の民

コロコロ石と石作(いしづくり)の民
飛騨川が木曽川と出会う場面が岐阜県可児市・美濃加茂市川合界隈,そこから愛知県犬山市内田・岐阜県各務原市鵜沼を通って,木曽川の中洲でもある各務原市川島までの中流域をゆったりと下ると,おおよそ20キロメートルの旅になる。その流域はいくつもの荒々しい「瀬」と「淵」が織りなすの場面でもあり,まさに変化にとんだ美しい「ライン下り」の風景が続くのである。そして劇的な空間に至る。それは木曽の流れが広大な平野部に流れ落ちる場所,私はこの平野部と出会う流域を「古代沼(つぬ)の里」と呼びたいと思っている。そこには幾筋かの小河川と台地から湧き出た泉が織りなす複雑な湿地が存在したに違いない。その複雑な「河」の流れは,時に仲間を隔てることもあるが,またモノの流れを繋げる画期的な役割をもっていた。木曽の流れは「沼の里」を起点にして広大な平野部に繋がっていたのである。

ところで地域には特徴的な素材が存在する。例えば坂祝から犬山にかけてよく見る赤色をした堅い岩ハダ,チャートの岩帯だ。実は周囲の山々もこの岩で構成されている。この堅く赤い素材を弥生人たちは自分たちの狩猟の道具として活用していた。五角形状の独特のカタチをもったヤジリの素材として使っていたのだ。また沼の里である犬山市に存在する最古の大型墳,東之宮古墳にはやはり堅いゴツゴツしたこのチャートの「赤岩」を選択して,お墓の表面に丁寧にきちんと並べ「葺石」として使っていた。そこには周囲の岩山景観との一体感が見事に演出されており,地域を一体化させるグローバルなセンスが見て取れるのであり,古代人の叡智と習俗が造り出した造形と言えよう。そしてさらに面白いのはその中に木曽川の「白い石」河原石が混じっていることです。赤岩に白ゴマのように白石が点々と混ざるのです。不思議ですね,標高140メートルの高所には河原石はありませんので,古代人がわざわざ木曽の河原から運び上げたものです。すごいです。

では何故そんな事をしたのでしょうか・・。古墳時代の木曽川中流域のお墓の造り方に,面白い共通点があります。それはまずもって「お墓の印象」です。お墓の大きさやカタチより見た目。コロコロした丸い大きな河原石をふんだんに使って,見た事もない奇妙な石のヤマとその中に石の部屋を築きあげているのです。おおきな白い河原石を巧みに組み合わせる,他の地域ではあまり見かけない風景です。中に入ると河原石がもつ白い色と丸みの調和が不思議な暖かさを醸し出してくれます。丸くて組合せにくい素材だが,今にも崩れ落ちそうで崩れない独特の工法を彼らはあみ出し,その技術を共有したのです。

可児市次郎右衛塚1号墳はその典型例であり,現在は史跡整備で復元されていますので,古代の息吹をそのまま感じることができる貴重な場面になってます。また犬山から可児にかけての丘陵に分布する,ちょっと軟らかい白石(凝灰岩)を加工して石の棺を作り出しました。河原石・凝灰岩といった地域の素材を巧みに利用した,名もなき職人たちの技が残る。古代「石作(いしづくり)」という名の集団が活躍し,その面影が中流域の各所に石作神社が奉られている。その神はタケマリネを祖と仰ぎ,尾張連(おわりむらじ)氏との深い関係が指摘されています。

さて,白い河原石。そうですね神社などで清浄な場面を作るときに必須の素材です。そこに古代人もこだわったのかもしれません。東之宮古墳の表面にゴマのように埋込まれた白い河原石,白一色の空間を造り上げた石の部屋という組物などには流域の民が長い間培ってきた,木曽の流れに対する畏敬の念が埋込まれているのではないかと思ってます。地域に残った貴重な文化遺産が,現在の私たちが忘れていた経済性では満たされない大切な何かを思い出させてくれます。

中日新聞2010-08-20(金)夕刊 掲載記事より

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