禽獣の鏡を鋳だす王

禽獣(きんじゅう)の鏡を鋳だす王 ー前編ー

はじめに

国宝犬山城から東側を望む,するとそこには各務原から続く美しい山並みが連なり,やがて木曽川をはさんで白山平(はくさんびら)に到達する。山麓には瑞泉寺の塔頭群とあい重なって,現在の成田山名古屋別院「大聖寺」が見えるが,その標高143メートルの白山平山頂には,国史跡「東之宮古墳」が存在し,古代邇波(にわ)を象徴する大王墓が今でも完全な形で残っているのである。この東之宮古墳は日本列島の古墳文化を考える上で,重要な学問的な位置を占める古墳として評価されているのであるが,特に興味深い点は,今回取り扱う奇妙な鏡が出土している事である。鏡は,王が眠る竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)からは11面の鏡が発見されたが,その内の4面が前代未聞。それまで誰も見た事がない,驚くべき異質な鏡であった。我々はその鏡を「人物禽獣文(じんぶつきんじゅうもん)鏡」と呼んでいる。東之宮古墳で見つかった11面の鏡は,最新の研究成果からは,中国鏡である斜縁神獣鏡1面,中国製か日本製か議論のわかれる三角縁神獣鏡が4面,その他の日本製である倭鏡が6面という構成になる。そしてその倭鏡6面の内,実に4面が人物禽獣文鏡という特殊な鏡群であり,東之宮古墳の副葬品を特徴づけているのである。今回は,この奇妙きてれつな鏡にまつわる物語を,整理しておくことにしたい。

人か獣か,はたまた精霊か

人物禽獣文鏡とは,呼んで字のごとくであり,鏡の裏面に鋳だされた文様が,ヒトと禽獣,つまり人のようなモノとトリやケモノのようなモノがめぐる鏡という事である。そこで4面の鏡を一つ一つ注意深く見ていくと,誠に奇妙で「何だろうか」と思うような大変面白い文様があちこちに見えてきて,ほんとうに楽しくなる鏡でもある。ここでその特徴的な文様を,鏡の中から選び出してみることにしょう。

まず「ヒト」であるが,人と呼ぶにはあまりにも奇妙なカタチをしたモノもあるが,とりあえず「ヒトたち」がいる。多くは両手をあげて「万歳」しているようにも見えてくる。面白いのがこのヒトのカタチが連続して配置される場合もあり,言ってみれば一つの文様になっているようだ。次に「ケモノ」であるが,これまた何ともいえない不思議なカタチをしている。ヒトとケモノが区別がつかないものもある。どうやら基本形はS字状の芋虫のようなカタチで,顔や体,手足といった明瞭な表現はほとんどなく,変幻自在な芋虫文と呼んでもよいかもしれない。次に「魚」だ,これは比較的わかりやすい表現で,尻尾が大きく,魚が元気に跳ねているような表現も見られる。このように人物禽獣文鏡の主文様はヒトとケモノ,加えて魚であるが,これらを組み合わせ,その間を多様な文様で複雑に充填している点が,この鏡群の特徴であり,そこに独特の世界が表現されているといえよう。

では,古代人は何をイメージして,どこで誰が,このような奇妙な文様を鋳だしたのだろうか・・。

最古の倭鏡

日本列島に住まう我々のご先祖が,はじめて鏡を自らの手で作り上げたのは,弥生時代の終わり頃である。大陸からの「鏡」を見よう見まねで作り上げたもので,お手本となった鏡に鋳だされた文様の意味までは,ほとんど意識していなかった。ところが,三世紀の古墳時代になると,古墳の副葬品に鏡が大量に用いられはじめる。倭人は鏡好きな民族だったようで,大陸から数多くの鏡がもたらされた。そして古墳の副葬専用に,オリジナルな日本製の鏡が作られ始めるのであるが,その極初期段階の鏡が,東之宮古墳では6面も含まれているから驚きである。これらは弥生時代の鏡とは大きさや質・デザインが大きく異なり,本格的な倭鏡製品としての第一歩の作品群と位置づけて間違いない。しかも優れた作品が多い。

ところで「古代邇波の里」内で最も古い倭鏡を捜すと,それは大口町余野遺跡群から出土した鏡をあげることができる。現在大口町歴史民俗資料館に展示されているものであり,列島のどこかで女王卑弥呼が登場する時代,まさにその西暦2世紀後半段階のものと考えておきたい。ちなみに余野鏡に鋳だされた文様からは,巫女の鏡であるという評価がある。

東海の鏡

さて東之宮古墳の倭鏡は,いったいどこで製作されたのであろうか。この問題の謎解きに一石を投じているのが,実は人物禽獣文鏡群であるのだ。なぜならば,これと同じ仲間の鏡は,ヤマトや近畿地域にはまったく見つかっていない。日本列島で数多く鏡が出土するヤマト地域ですら,見えてこない鏡である。そこで人物禽獣文鏡と同じ系列の鏡を捜すと,東之宮古墳で4面,他に岐阜県内で2面の合計6面の鏡が見つかる。ただしもう少し似たような鏡は,さらに2面加えることができる。そのうちの1面は,ヒトが描かれた数少ない鏡でもある「狩猟文鏡」にたどり着く。狩猟文鏡とは群馬県高崎市出土として伝わる鏡で,鏡背には槍や弓矢をもち,何やら怪しい踊りを繰り広げる踊り手たちが鋳だされた,摩訶不思議な鏡のことである。

どうやら人物禽獣文鏡とその仲間の鏡は,この地域とその東の国にだけに分布する特殊な鏡である可能性が高いということになる。さて,それは何故なのか・・。そしてそうした不思議な鏡をたくさんもっていた東之宮古墳の王とはいったい何者なのであろうか。(つづく)

 

 

禽獣(きんじゅう)の鏡を鋳だす王 ー後編ー

「棺」中に置かれた鏡

さて,前回までのお話から東之宮古墳の人物禽獣文鏡(じんぶつきんじゅうもんきょう)をまとめてみると,まずこの種の「ヒトとケモノが鋳だされた鏡」は,どこにも分布しない特殊な鏡であるという結論にたどりつく。また日本で本格的に鏡生産がはじまった3世紀ごろの,大変貴重な初期倭鏡でもあった。いずれにしても人物禽獣文鏡という特殊な鏡は,東之宮古墳から多く見つかっているのであるから,彼と深く関わる鏡である事にかわりないようだ。あるいは彼の意思,メッセージがそこに込められた鏡であるといっても過言ではない。実はその決定的な証拠がある。

それは東之宮古墳の竪穴式石槨からは11面の鏡が発見されたと述べたが,その配置から見ると10面と1面の組み合せになる。つまり10面は王が葬られた石槨内ではあるが,その中に安置された木棺の外側にまとめて配置されていた。10面の鏡は棺の外側に置かれていたのである。つまり残る1面だけが,棺の中にあった。その棺の中の唯一の鏡が,三角縁神獣鏡や中国鏡といった一般的に評価の高い大型鏡ではなく,他にどこにも類例がない「人物禽獣文鏡」なのだ。この時代の多くの古墳と比較すると,それは例外的な事例であるといえよう。

東之宮古墳の人物禽獣文鏡はA・B・C・Dと四つの鏡が存在する。棺の中の鏡は人物禽獣文鏡の中で最も古い「A」鏡であった。つまり東之宮古墳の王は,最古の人物禽獣文鏡を自らの棺の中に据え置かせたことになる。他の鏡を排して,禽獣の鏡を死せる手元に置いたのである。おそらく彼が一番大切にしていた鏡であったことは想像に難くない。

東之宮古墳に眠る王の強い意思により,どこにも類例のない不思議な鏡群がこの地で製作された。そして自らの手で鋳だした禽獣の鏡への思いを込めて,棺の中に配置したのである。

「ヒト」表現

人物禽獣文鏡の特徴は,やはり何と行っても奇妙なヒト表現にある。ヒト表現は大きく二つに分類でき,片足をあげて踊るような表現をもつ「ヒトa」とこれまた前代未聞の奇妙な怪人文「ヒトc」。ところで,ヒトaからヒトbが生み出されるのであるが,それがやがて一つの文様となり,最後の禽獣文鏡である四つ目の「D」鏡で,鏡の「単位文」にまで進化する。ヒトabは徐々に小さく簡略化されていき,同時に表現されるヒトが増加する。両手を上げ万歳をしているような表現が基本形のようにも思える。面白いことに第3番目の「C」鏡では,ヒトが踊るような表現を見せ始めている。一方でヒトcは第2番目の「B」鏡だけに見られる特殊な表現といえよう。ただし,五島美術館蔵鏡の中に比較的良く似た鏡が一面だけ存在する。注目したい。

ケモノ表現は三つに分類でき,ケモノaは芋虫状の表現で,やはり簡素化へ向かい,レンズ状文と呼ばれる小さな膨らみ状の表現へと同化する。最も注目したいのがケモノbである。それは第3番目の「C」鏡でしか見られない表現であり,まさに踊るヒト表現と共に動きのある表情を見せている。「C」鏡は,人物禽獣文鏡の傑作と呼んでも過言ではないほど素晴らしい作品である。ケモノcは,くちばしと首を反り返える表現が見てとれるため,ここでは「鳥」表現と考えておきたい。鳥とすればこの鏡群中では唯一の表現となる。

さて,一方でもう一つの表現が「魚」である。これは他の意匠と異なり,新しくなるにつれて簡素化するのではなく,逆に表現が豊かに,大きく表される。あるいは身近で現実的な生き物と,そうではないモノたちとの表現の違いを読み取ることができるかもしれない。

邇波(には)の「はじめの王」

以上,東之宮古墳から出土した不思議な人物禽獣文鏡について見てきた。東之宮古墳の王が眠る棺の中に唯一配置された鏡は,出来の良い中国鏡でも大型の三角縁神獣鏡でもなく,ここにしか存在しない特殊な鏡である「人物禽獣文鏡の最古鏡」であった。その分布やデザインから,ここ邇波の里で独自に製作された特殊な鏡であった可能性が極めて高い。そして鏡に鋳だされたモノたちは,次々に進化し,人物禽獣文鏡第3番目の「C」鏡において,その傑作とも呼べる優れた作品を生み出すまでに至る。動きのあるヒトとケモノ,トリやサカナがうごめく森羅万象。あるいは清流「木曽」河の景色を時空ごと切り取り,鏡の中に封じ込めたものかもしれない。現代,私たちが忘れかけている美しい郷土の風景を,時代を超えて伝えようとしたのだ。するとその意図は,いったい何だったのだろうか。

三世紀から四世紀にかけて,古代邇波の里にはおおむね四代にわたる大王墓が造られた。すなわち東之宮古墳・青塚古墳・坊の塚古墳,そして妙感寺古墳である。それぞれの王や彼をささえた民衆が夢見たモノ,そして未来に伝えなければならない大切なモノがあったはずだ。多くの伝承が消えては生まれ,その歴史の中に彼らのメーセージが息づく。

一枚の不思議な鏡,それは時空を超えて伝えなければならない大切な何かを,私たちに教えてくれているのだと思う。邇波の最初の大王墓「東之宮古墳」は,まだまだ我々の計り知れない謎に包まれた存在でもある。その事に気づく瞬間,その時と場面を静かにまっているのかもしれない。

「史と詩の町から」vol.11-4&12-1 より

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