Archive for 7月, 2011

コロコロ石と石作の民

土曜日, 7月 23rd, 2011

コロコロ石と石作(いしづくり)の民
飛騨川が木曽川と出会う場面が岐阜県可児市・美濃加茂市川合界隈,そこから愛知県犬山市内田・岐阜県各務原市鵜沼を通って,木曽川の中洲でもある各務原市川島までの中流域をゆったりと下ると,おおよそ20キロメートルの旅になる。その流域はいくつもの荒々しい「瀬」と「淵」が織りなすの場面でもあり,まさに変化にとんだ美しい「ライン下り」の風景が続くのである。そして劇的な空間に至る。それは木曽の流れが広大な平野部に流れ落ちる場所,私はこの平野部と出会う流域を「古代沼(つぬ)の里」と呼びたいと思っている。そこには幾筋かの小河川と台地から湧き出た泉が織りなす複雑な湿地が存在したに違いない。その複雑な「河」の流れは,時に仲間を隔てることもあるが,またモノの流れを繋げる画期的な役割をもっていた。木曽の流れは「沼の里」を起点にして広大な平野部に繋がっていたのである。

ところで地域には特徴的な素材が存在する。例えば坂祝から犬山にかけてよく見る赤色をした堅い岩ハダ,チャートの岩帯だ。実は周囲の山々もこの岩で構成されている。この堅く赤い素材を弥生人たちは自分たちの狩猟の道具として活用していた。五角形状の独特のカタチをもったヤジリの素材として使っていたのだ。また沼の里である犬山市に存在する最古の大型墳,東之宮古墳にはやはり堅いゴツゴツしたこのチャートの「赤岩」を選択して,お墓の表面に丁寧にきちんと並べ「葺石」として使っていた。そこには周囲の岩山景観との一体感が見事に演出されており,地域を一体化させるグローバルなセンスが見て取れるのであり,古代人の叡智と習俗が造り出した造形と言えよう。そしてさらに面白いのはその中に木曽川の「白い石」河原石が混じっていることです。赤岩に白ゴマのように白石が点々と混ざるのです。不思議ですね,標高140メートルの高所には河原石はありませんので,古代人がわざわざ木曽の河原から運び上げたものです。すごいです。

では何故そんな事をしたのでしょうか・・。古墳時代の木曽川中流域のお墓の造り方に,面白い共通点があります。それはまずもって「お墓の印象」です。お墓の大きさやカタチより見た目。コロコロした丸い大きな河原石をふんだんに使って,見た事もない奇妙な石のヤマとその中に石の部屋を築きあげているのです。おおきな白い河原石を巧みに組み合わせる,他の地域ではあまり見かけない風景です。中に入ると河原石がもつ白い色と丸みの調和が不思議な暖かさを醸し出してくれます。丸くて組合せにくい素材だが,今にも崩れ落ちそうで崩れない独特の工法を彼らはあみ出し,その技術を共有したのです。

可児市次郎右衛塚1号墳はその典型例であり,現在は史跡整備で復元されていますので,古代の息吹をそのまま感じることができる貴重な場面になってます。また犬山から可児にかけての丘陵に分布する,ちょっと軟らかい白石(凝灰岩)を加工して石の棺を作り出しました。河原石・凝灰岩といった地域の素材を巧みに利用した,名もなき職人たちの技が残る。古代「石作(いしづくり)」という名の集団が活躍し,その面影が中流域の各所に石作神社が奉られている。その神はタケマリネを祖と仰ぎ,尾張連(おわりむらじ)氏との深い関係が指摘されています。

さて,白い河原石。そうですね神社などで清浄な場面を作るときに必須の素材です。そこに古代人もこだわったのかもしれません。東之宮古墳の表面にゴマのように埋込まれた白い河原石,白一色の空間を造り上げた石の部屋という組物などには流域の民が長い間培ってきた,木曽の流れに対する畏敬の念が埋込まれているのではないかと思ってます。地域に残った貴重な文化遺産が,現在の私たちが忘れていた経済性では満たされない大切な何かを思い出させてくれます。

中日新聞2010-08-20(金)夕刊 掲載記事より

古代時空間アルバム

金曜日, 7月 22nd, 2011

古代時空間アルバム
郷土の埋もれた文化遺産。愛知県には驚くような不思議なモノたちや,謎に満ちた驚異の遺跡がまだまだ眠っている。一見,現代の生活や街並とまったく無関係だと思うでしょうが,それはちょっと違うかもしれない。古代のモノ・出来事だといって無視するのはもったいない。ひょっとすると,地域力を蘇らせる魔法のアイテムになるかもしれない。したがってまずはご自分でそのモノたちに出会う必要がある。ではどうしたらそうした情報を手に入れることができるか。それがとても簡単なことなのです。

愛知県埋蔵文化財センターのホームページを訪ねていただくだけで良い。そこには,ここだけしかない「古代時空間アルバム」というコンテンツが用意されています。遺跡から出土した器や発掘風景などの写真が約20000点,他の地域を圧して余ある物量で,しかも無料で体験できる。いつでもどこでもどんなデバイスでも,インターネットにつながっていればOK。お手軽ですので,一度ぜひお試しいただきたい。さらに検索された項目から,次々に遺跡や遺物にたどり着くことができます。ひょっとして驚きの出会いが待っているかもしれません。
さて具体的にその方法を見てみましょう。まずwww.maibun.com/topへログイン。

すると,愛知県埋蔵文化財センターのホームページにアクセスできます。そのトップ画面の左上に「考古学アーカイヴ」という項目がありその下に「遺跡アルバム」というボタンがあります。これをクリックしていただくと,検索画面になります。「遺跡名」と「内容」という項目がありますので,何でもいいのですが,例えば「内容」というボックスに「円窓」という言葉を入れてみましょう。すると・・・画像の中に検索項目と関係しそうなモノたちが選択されます。奇妙な壺やその仲間たちがたくさん出てきますね,壺の中央に大きな穴があいている。

実はこの壺は愛知県清須市に存在する「朝日遺跡」という県内最大級の弥生遺跡から見つかる謎の土器です。面白ことにこの壺は朝日遺跡以外にはほとんど見つかっていない。また土器を焼く前に大きな穴を開ける理由も,その用途もまったくわからない・・ヘンテコリンな器なのです。しかし見方を変えると,ここにしかない優れたデザインでもある。であるならばこのカタチを街並アート・街路灯にして,街を一気に亜空間にしてしまったらどうだろうか・・。
遺跡からの情報は,他に類例を見ない特徴的かつ重要な地域共有の財となるモノです。そして一番の特徴は,直ちにその地域の風土にあったデザインに変身できるという優れた特徴をもっている点です。何たって,そこから発見されたのですから・・。遺跡アルバムに掲載されたモノたちは,未来への地域社会の歴史・文化の礎を築き,豊かで楽しく個性的な地域を作っていく上で重要な役割を担っていくものと確信しております。

地域独自の取り組みが求められている現代,私たちが提供する時空間アルバムを活用する時が近づいていると思っています。この地域にしかない優れたデザイン,古代の叡智を観じる場面を発掘資料から街々に,現代に蘇らせるのです。

『月刊なごや』no.329 2010-02より

甲斐の国*事始め

日曜日, 7月 10th, 2011

■はじめに

甲斐盆地にS字甕を代表とする東海系文化が到達するのは、米倉山B遺跡段階からと考えられている。その後、東海系土器およびその文化は急速に甲斐盆地の地域社会に受け入れられ、定着する。そして新たな土器様式とその文化を誕生させることになった(小林1993)。米倉山B遺跡段階以降に誕生したあらたな甲斐の土器様式、そこに見られる土器の形とそのデザインは、おおむね濃尾平野土器様式であるⅡ式前半期を基本形としている点は明らかである。その頃の濃尾平野の中心的な場所は、愛知県一宮市南部と想定している。そこで、web地図上で甲斐東南部の曽根丘陵までのルート検索すると、徒歩で265km・55時間になる。時速4.8kmほどで、一日6〜7時間、30kmを目安とすると9日で到達する。ルートは、一宮市から濃尾平野を横断し、内津峠を通って、東濃に入り、恵那・中津川から木曽川谷を遡る。諏訪・茅野を通って、甲州街道を韮崎から八代郡へという想定である。東海系文化は、今から一八〇〇年ほど前、何を求めてこの地に到達したのだろうか。

■西暦二〇〇年のインパクト

濃尾平野から東海系文化が広域的に拡散する現象が存在する。第1次拡散期としたものである(赤塚1996)。その時期はおおむね廻間Ⅱ式前半期を中心として、主に東日本に広がりをもつことがわかっている。さて、東海系土器参入時期の開始を知る手掛かりは、米倉山B遺跡にある。ここから出土したS字甕によって、遅くても廻間Ⅱ式初段階には甲斐地域に到達していたと考えて良いものと思われる。であるならば、濃尾平野から東方への拡散現象の中では最も初期段階に位置づけることができる。実はこれと同じような現象が今一つ見られる。長野県中野盆地への広がりである。木曽谷を遡った東海系文化の担い手たちは諏訪で分岐して、一方は善光寺平を目指し、一方は甲斐を目指すことになる。その年代はAMS年代測定法や年輪年代法を考慮した新暦年代では、西暦二〇〇年前後と想定している(赤塚2006a)。それはおおむね列島内のどこかに存在したであろう、女王が都とする「邪馬台国」、そしてその女王卑弥呼が多くの國々から共立された時期に相当する。時代は弥生時代から次なる古墳時代へ確実に動き出そうとしている。東日本の地域社会に多大な影響を与えた東海系文化が、いかなる要因で広域域的な動きを見せはじまるのかは興味深い問題だ。いずれにしろ、結果的に東海系文化の担い手たちは中部・関東などの地域社会の変革に参画することになる。ただ、地域社会は一様にこの東海系文化を受け止めたのではない、そこには多様なあり方が見られる。当然のことであるが、その受容を拒絶した地域社会もあった。

■地域社会の変動

東海系文化の参入とともに甲斐地域では新しい土器様式が誕生し、集落遺跡をも巻き込み地域社会の風景が激変していくようである。それは竪穴建物の形(方形プラン化)や立地場所の変化を伴なることが指摘されている(中山1993)。ただ、東海系文化の担い手たちが、そうした激変の主導権を握っていたかは別問題だ。むしろ土器様式一つを見ても、デザインの多くは甲斐地域での型式の置換と融合、その解釈にあり(小林1998a)、したがって地域社会の風習の枠内での主体的な変化であったと、評価すべきものである。しかし最も重要な点は、この激変がそれ以前の甲斐盆地での地域性、小地域単位での風俗性の差違を払拭させるような力強い動きであったと推測できることである。こうした新しい時代の方向性をいち早く受け止め、伝統的地域社会を変革し、新しい枠組みを志向し、地域社会をリードしたまとまりが、東南部の曽根丘陵に割拠した集団であったことは明らかである。

■三世紀の甲斐、そして墳丘墓

甲府市(旧中道町)の上の平遺跡。標高330mの台地上に展開する120基以上の「低墳墓」が調査されている。その内部は4つの群により構成されており、より広範囲な集団による経営が想定されている(中山1989)。おおむね小林甲斐弥生終末〜Ⅰ期(小林1993)を中心とした造営であり、ここでの新暦年代をあてると二世紀後半から三世紀前半期となり、まさに邪馬台国の時代である。前方後方形の墳墓が確認されている上野遺跡・姥山遺跡・榎田遺跡・坂井南遺跡・下西畑遺跡などの状況からは、おおむねその出現が小林甲斐Ⅱ期(廻間Ⅱ式併行)を中心としていることが判明しており、4世紀にかけて存続するようである(小林1998b)。前方後方形は、それぞれの墓域内に含まれる形で点在する事が多いようだ。一定の階層クラスが、全てこうした前方後方形の墳墓を造営した形跡は認められない。ただ、大きさとして20m以上、15m・10mという単位が存在し、その規模が地域の「大きさ」として定着している点は留意したい。この延長上に甲斐盆地の初期の前方後方墳である小平沢古墳45mが位置づけられることにかわりはない。その造営は、出土したS字甕から三世紀後半期に位置づけられる。なお主墳の大きさは20mクラスで、上野遺跡のB1型とほぼ同じクラスの規模を有することになる。つまりこの段階では、甲斐地域の「王」の大きさが習俗的に決められており、その枠内で墳墓の規模と形を造り上げていたと評価したい。したがって、そこに畿内の王権が直接的に関与した形跡はほとんど存在しないと考えたい。三世紀前半期から中頃には、甲斐盆地に新しい文化とそのシステム・枠組みを作り上げようとした「曽根」の王とその仲間たちが手がけようとした地域開発が想定できる。それまでの多様な甲斐盆地の習俗をまとめ、より広範囲な地域社会との情報を受け止める受け皿が用意されようとしていた。

■甲斐銚子塚古墳の造営

一六九mという破格の大きさをもつ甲斐銚子塚古墳。その存在は東日本を代表する前期古墳でもある。出土したS字甕(森原・森屋2005)や副葬品などから造営時期が甲斐Ⅳ期、松河戸Ⅰ式前半期・布留中段階新相併行期に置く事が可能であろう。するとここでの新暦年代から、銚子塚古墳の造営時期を四世紀前半期の中に位置づけたい。またそれは、濃尾平野での副葬品と土器編年の関係を模式した基本軸からも想定できる。具体的には標識資料とした親ヶ谷古墳と甲斐銚子塚古墳の副葬品を比較すれば、一段階新しい様相を示す可能性が高いものである。したがって先行するとされる天神山古墳や大丸山古墳の存在を考慮すると、甲斐盆地に大型の前方後円墳が造営されはじめるのが、おおむね松河戸Ⅰ式段階からであるということになる。すると彼らが活躍した時代はまさに、行燈山古墳(現崇神陵)・渋谷向山古墳(現景行陵)を中心とした時期であり、「おおやまと」から佐紀古墳群造営に至る過程でもある(白石二〇〇〇)。ここではおおむね甲斐の大型前方後円墳の造営は、佐紀古墳群の本格的な造営がはじまる過程で、曽根丘陵を中心とした墳墓の造営は、ほぼ終焉すると考えておきたい。一六九mの大きさは「地域が所有する大きさ」ではない。そこには何らかの王権との関係や地域社会での習俗性をまとめあげた力強い指導者の姿が予見できるのだろう。もちろんその背景には上の平遺跡を嚆矢とする曽根丘陵の百年以上の長い歴史と、東海系文化を受け入れ、それを契機に伝統・風俗性の統一を図った王とその仲間たちの存在があり、その延長上に位置づけることが重要だと考えたい。

■古墳文化共鳴論からの視点

二世紀から四世紀の古墳時代早期・前期の古墳文化。その出発を邪馬台国と狗奴国との抗争を乗り越えた新たな倭王権の誕生と位置づけ、その王権が発する情報への共鳴現象が前方後円(後方)墳の造営であると考える。つまり倭王権への参画とその模倣の証が古墳文化の多様性を造り上げている(赤塚2006b)。こうした視点に立脚すると、甲斐盆地での大型前方後円墳の造営とは、甲斐盆地に存在した多様な弥生時代以来の部族社会を止揚し、それを新たに一つの領域として位置づけようとした点にあるのではなかろうか。そしてそれを実現するために、東海系文化を積極的に利用して、その風俗性を一気にまとめようと動いた。これを実現したのが「曽根」の王とその仲間たちであったと考えたい。曽根丘陵を中心とした集団の不断の歴史がそこにある。三世紀からの甲斐の王権は「おおやまと」から佐紀古墳群への大きな動き中で、倭王権中枢部に存在する複数の揺れ動く集団を利用して、この時期では東日本最大規模の大型前方後円墳を造営するに至ることになる。そこには広域的なネットワークと情報を巧みに整理し、地域社会を取りまとめた、カリスマ的な人物の存在が推測できる。まさに甲斐という地域社会の誕生であり、以後この地域観・風俗性は不動な一帯性として地域社会に定着し継続することになる。そして絶えず揺れ動く畿内での倭王権の変動とともに、地域を挙げた倭王権への参画は客体化する。伝統的地域社会の習俗性を基礎として、甲斐には新たな枠組みを基本にした平穏な地域社会がよみがえることになる。

参考文献

中山誠二 1989「中部・関東地方の弥生集団墓の構成について」『山梨考古学論集』「 山梨県考古学協会

小林健二 1993「山梨県域の土器様相」『東日本における古墳出現過程の再検討』日本考古学協会 新潟大会

中山誠二 1993「山梨県域における集落・墳墓の概要」『東日本における古墳出現過程の再検討』日本考古学協会 新潟大会

赤塚次郎 1996「前方後方墳の定着」『考古学研究』第43巻第2号

小林健二 1998a「山梨県出土の東海系土器」『山梨県考古学協会誌』第10号

小林健二 1998b「甲斐における古式土師器の成立」『専修考古学』第7号白石太一郎 2000『古墳の語る古代史』岩波現代文庫

森原明廣・森屋文子 2005『国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳』山梨県教育委員会

赤塚次郎 2006a「東海系土器と東日本の墳丘墓」『古式土師器の年代学』(財)大阪府文化財センター

赤塚次郎 2006b「古墳文化共鳴の風土」『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要』7

 

2006-10-29

(甲斐風土記の丘研修センター 講演会「甲斐銚子塚古墳と東海系文化」より赤塚発表資料)