Archive for the ‘考古学’ Category

住まう神と古代地域プロジェクト

金曜日, 8月 19th, 2011

愛知・新編風土記の再構築をめざして覚書2010

 

三世紀の日本列島は「邪馬台国時代」に象徴されるような,多様な部族社会を中心とし,さまざまな地域社会がほぼ独自に一つの領域をもつ「國」を作り上げていたものと想定している。そしてやがて大きな歴史のうねりの中で,あらたな枠組みを模索しつつ変貌していくのであり,伊勢湾沿岸部の部族社会も例外ではない。ただその外枠を形作っていたものは,まだまだ概念的な政治体制やそのシステムといったものではなく,風俗・風習等に基づく地域社会が作り上げてきたその地の習俗性にあると思っている。

 

・地域を代表する古墳とは何か,まずは以下のように考えておきたい。その地域社会がその時点で必要としたプロジェクトがある,そしてそれを推進し,実行するミッションが生まれ,そのミッションを遂行するリーダーが必要とされた。彼の実施した結果と評価にあたえれた,この時代として具体的な民意が,古墳の大きさであると考えたい。

・弥生時代以来,地域には地域のカタチと大きさ・基準がある。総じて主墳丘30m(前方後円(方)墳では60m前後)以下の墳丘墓はこの地域原理に基づき造営されていくものと考えたい。したがって多くの古墳のカタチと規模に絶対的な規格は存在しない。基本的には地域社会の選択性が反映されると思っている(古墳早期から中期)。

・そもそもこの時代,一律に「首長権の継承とは何か」を問題にすべき対象とはなりえない。地域社会を一身に背負い体現する地域神・英雄論を本格的に研究対象とすべきである。古墳造営という出来事性,その場面は本来その地域社会が育ててきた伝統性・習俗性の延長に位置づけて,それぞれ解釈していく必要がある。

・集落遺跡から概観して,古墳時代を大きく前半と後半期に二分する出来事は,松河戸II式期に勃発した環境変化・「大毛池田層」の堆積と考える(西暦4世紀後葉)。古墳寒冷期後半期の開始にほぼ相当する現象と想定でき,そこに地域を評価するあらたな視点が生まれてくる。

 

1. 濃尾平野という景観

ここで言及したいのは,縄文海進前後からの平野部形成過程の風景ではなく,木曽三川が流れ込む広大な濃尾平野に人々が本格的に定着し,自らの意思でその独自の文化を育みはじめた瞬間。そしてやがて「三野」・「尾治」という大きな領域が生み出された時点での物語である。そこには,郡的規模(おおむね旧郡単位)という日常生活に密着した庶民感覚の領域が目覚めはじめ,地域の素材とその特性を生かした,興味深い産業が産声をあげはじめていた事だろう。また地域には守るべき地の神々が奉られていた。そしてその場面は,現代にまで繋がっているモノもある,と考えるのが素直な考え方であると思っている。

木曽川の流れが平野に流れ落ちる扇の要に,愛知県犬山市が位置している。そこを起点として犬山扇状地(木曽川扇状地)が広がっている。この犬山扇状地上には幾筋もの河川の痕跡が刻まれており,それは江戸時代尾張藩による抜本的な治水事業(木曽本流の一本化,お囲い堤)が実施される以前の状況を今に伝えている。木曽本流の流れは犬山を起点として複数の河川が網の目状に扇状地を流れ,やがて低地部にて湿原と海に出会う。扇状地では水の流れとともに伏流水となり,多くの場所では「泉」が湧き上がり,虫や獣たちが集まる「楽しき場面」を形作っていたに違いない。

 

2. 泉と水神

尾張一宮「真清田神社」が位置する尾張一宮周辺地域は,まさに扇状地の伏流水が湧き上がる「水の街」ともいうべき場面に位置している。発掘調査では一宮市八王子遺跡の長方形区画と井泉遺構がまさにその場面を明確に表現しているものと思われる。滾々と湧き上がる美しき水,そこにさまざまな生き物が集まり,やがて街が生まれる。あるいは人々が遊び集まる「遊び場」をカタチ造っていく。そして八王子遺跡のように特殊なイベント会場が造られ,ある日・ある場面に伊勢湾沿岸部に暮らす多くの部族社会の代表が参集し,豊かな伊勢の海の恵みと美しき水の神への感謝の儀式が執り行われたことだろう。儀式の大小を不問とすれば,こうした湧き上がる美しき泉が平野部に点在し,生命の源を予感させる水神を奉ることが行なわれたことは想像に難くない。また犬山扇状地においては,黒く酸性化した土壌であるために近代に至るまで作物が育つ事はなく,農業には適さない場面であった。したがって大きな集落遺跡の形成は,事実上困難な状況下にある。

律令期段階の文献に基づけば,木曽川を中心とした河川の氾濫が頻繁に勃発し,街そのものの崩壊や移動が見られ,標高5m以下では流路を大きく変える事がしばしばあったと考えるのが自然である。いわんや古墳時代では,豊かな水の代償として多発する災害,その圧倒的な自然のチカラの前に,人々は人知を越えた神への畏敬の念を共有したのである。水神への奉仕と地形を巧みに利用した叡智・治水対策が地域社会の宿命的なプロジェクトであったと考える。そしてそこに時に偉大な指導者が登場することになる。

犬山扇状地と湿原低地部に残る墳丘墓・古墳に眠る被葬者像は,こうした地域社会の実情に則して登場したプロジェクトリーダーたちであったと想定しておきたい。

 

3. 「高木の神」と山神

シルト・砂による堆積物,扇状地では拳・人頭大のコロコロとした河原石が堆積する環境であり,雑木林は育つが巨大な「高木」は難しい。一方で尾北域の東部丘陵地域や名古屋台地周辺ではこうした神秘的な森や鎮守の杜が存在した可能性が高い。そしてさらに名古屋市最高峰である「東谷山(とうごくさん)」や犬山市の尾張富士・本宮山といった象徴的な山々への畏敬の念が存在したに違いない。尾張二宮「大縣神社」はまさに本宮山に鎮座する神であった。そして大荒田命(邇波縣(にはノあがた)の祖)の墳墓が犬山青塚古墳に葬られているという伝承がある。その真意はともかく,銅鐸二口の出土が伝わる本宮山,弥生時代以来のこの地の神々が集う聖なる場所であり,本来は東部丘陵と呼ぶ深い森を背景として,その豊かな木々と蓄えられた美しき水を支配する山神として奉られていたことは間違いない。

青塚古墳は河岸段丘崖に立地し,その西面には扇状地が広がる。そこには丹羽郡大口町余野遺跡群に割拠した部族社会が存在し,その関係が容易に推測できる。そして青塚古墳周辺には今も湧き出る「美しき水」を基にした産業(酒蔵・地ビール)が継承されている。泉と山を結ぶ場面がこの青塚古墳が造営された場所であり,そこに眠る被葬者は「壺形埴輪」という伝統的なアイテムを活用し,地域社会が守ってきた仕来りを継承した人物であったと考えたい。そこには不毛の「犬山扇状地北部」に挑むあらたな開発プロジェクトの存在が見え隠れする。それは東之宮古墳からはじまる古代邇波(には)を巡る英雄たちの興亡の歴史そのものでもある。

そこには継承される不動の王権の姿は見えてこないのであり,繰り返される地域社会の存在そのものを賭けた断続的な地域プロジェクトと,その実現に尽くした偉大なリーダーが讃えられていく。それを「王」と呼ぶかどうかは別問題。

 

4. 干潟と台地が織りなす「景勝地」 遊び場という場面

名古屋台地には「海」と「河」と「高木の森」が出会う場面が存在した。その面影は現在の熱田神宮が存在する「熱田の森」に認める事ができよう。台地から湧き出る水,海の幸・干潟の幸を求めて数多くの人々がやってくる。名古屋台地南部の「アユチ」には弥生時代以来の集落遺跡が点在し,独自の文化を育んできた。しかしその文化は尾張低地部や西三河方面からの多様な人の往来を基本にしていたようであり,自ら根ざしたデザインは極めて少ない。そして「古代東への道」を象徴として,やはりここは畏敬の念が育つ場面というより,季節の応じて「人々がやってくる,遊び場」としての空間的位置づけが良いのではないかと思っている。

浜遊びの場面,それがこの低丘陵が複雑に入り組み,湿原と河,海が錯綜する自然の絵画的場面,「アユチ」潟の本来の美しい姿であったと考えている。各場面には湊・河・高木の神などを祀り,自然が織りなす風景を崇め楽しんだことだろう・・。

この人々が集まってくる景勝地に,あらたな街道と港,そして独自の産業をもたらした一族が存在する。尾張連氏である。熱田社の繁栄は古墳時代中期を大きく遡ることは考古学的に難しい。尾張最大の前方後円墳「断夫山古墳」に代表される大型前方後円墳の造営は,言ってみれば固有の地域社会からの内なる要望というよりも,大掛かりで計画的な前代未聞のグローバルな地域デザインの創出にあると考えている。そのミッションを見事に成し遂げた大王(尾張連草香)の存在が見えてくる。その意味ではそれ以前の古墳造営理念とは一線を画する。 やがて神はそこに在るのではなく,集められ造られる存在となった。 熱田という場面の出発は本来,絵画的風景をもつ浜遊びの場と台地から湧き出る泉への憧れの場面から発した地域社会であったに違いない。

 

5. 御河と猿投山

矢作川水系の源は精神的にも霊峰「猿投山」である。式内社猿投神社はヤマトタケルの兄とされる大碓命を祀るが,本来はやはり豊かな山塊と森を控えた山神でろう。そして水系に営まれた数多くの弥生・古墳集落の祖霊が住まう聖なる山であったに違いない。挙母盆地の集落遺跡は,その多くが安定した台地端部に立地し,恒常的かつ未曾有の災害に備える意思は見られない。そこには尾張平野で観じたような地域をグローバルにデザインするような,あるいはそうせざるを得ない環境への主体的な取り組みはある意味において必要ない地域と考えたい。それは 弥生・古墳時代を通じて現状では,挙母盆地とその周辺には大型の拠点集落や大型前方後円墳は存在しない一つの要因であるかもしれない。おおむね猿投山を仰ぎ見る多様な部族社会の集合体が割拠する場面でもある。

郡界矢作川中流域の渡河点,そこにも「道と港の神」が住まう場面がある。そして未曾有の災害を察した地域社会の新たな取り組みが残されている。 現在の式内社糟目(かすめ)神社が鎮座する 豊田市水入遺跡では,古墳時代中期を中心とした大溝遺構と多量の遺物群が確認されている。「天神地祇を祀る多量の器」に象徴される場面が残されたのだ。尾張平野を覆い尽くした大量の砂層「大毛池田層」がある。それは西暦400年前後での環境変動を予見させるものであり,矢作川水系では郷上遺跡の「郷上大溝」の砂堆積や本川遺跡の終焉,そして台地上に神明遺跡が出現する背景などは同様な環境変動を類推することができよう。

松河戸Ⅱ式期に異常なまでの粗製土器群の盛行は,あるいはこうした災害への人々の願いが必然的に起こした様式変化かもしれない。いずれにしても古墳時代中期を迎える場面での変動が,矢作川中流域を巡る舞台に新たな方向性を示そうとしているようだ,それは新たな氏族とその仲間たちの活躍とその形跡であるかもしれない。そこに人知を越えた神の将来と災害を受け止め,あたらな地域開発に挑むための周到な用意,新たな技術革新(韓半島系文物)を志向した地域社会(あるプロジェクト)の意思を観じる。

 

6. ハズの海といぬがしらの糸

知多半島・渥美半島,そして三河湾,さらには伊勢湾に浮かぶ神島から志摩半島に至る海の道がある。知多半島の先端には羽豆(はず)神社が鎮座し,三河湾に面した中央部の幡豆町には式内社幡豆神社が存在する。この地はヤマトタケル伝承にある尾張氏の祖,建稲種命が死体となって漂着した場面と伝えが,いずれにしろ伊勢湾から三河湾にかけて海を生業とした民の存在と彼らが崇める神が存在した事は間違いない。それが古代ハズの海に息づき長きにわたり,独自の文化を育んできた。やがてその伝統は「土器製塩」というアイテムの開発となり,一つの産業を生み出すまでに至る。その契機に尾張氏が関与したことは明らかであるが,その前半期には尾張氏の香りはほとんどしない。その神が何処ともなく海を渡り来る「マレビト」であったのかはよくわからないが,大変興味深い。

ところで,ハズの海を見下ろす高台に大型前方後円墳である吉良町正法寺古墳が存在する。本来,西三河地域の情報発進基地は弥生時代以来の文化が根付く,現在の安城市域に存在した「古井遺跡群」にあることは間違いない。そしてこの地に住まう神を崇め,代々にわたり集落を構え,独自の文化を育んできた。やがてその方向性から古墳時代前半期には次々に大型前方後円(方)墳を築きあげた。碧海郡桜井郷周辺地域こそがあまねく「御河地域」を代表する場面となっていた。そしてハズの海を介したさまざまな人と文物もこの地にもたらされてくる。そうした状況が古井遺跡群の調査から垣間見えてくる。ここには伝統的な情報発信基地が存在し,時代に則して変化する,その伝統を受け継ぎそれを守ってきたリーダーたちが眠っているはずである。ここには弥生時代以来の伝統工芸を継承する地場産業が育ち,それを一つの生業としての集団幻想が生み出された。その実態は計り知れないが,今昔物語が伝える三河ブランド,「犬頭白糸(いぬがしらのしらいと)」。後の世に伝えられた,憧れの製品で雪のように白く,独特の光沢を放つ不思議な絹織物があった。魅力的な素材でもある。

しかし,ハズの正法寺古墳の造営はこうした方向性とは異なる原理であったと考えたい。まさにハズの海そのものを主体とする海人集団の奥津城であることは容易に推察できようが,この場面に潜む風景を読み解くための資料はほとんど存在しない。では何故この時点になり突然のように大型前方後円墳を造営に至るのか,海人集団に何か異変が勃発したのであろうか。造営理念に共通項が見てくる伊勢宝塚古墳との関係をまずは考えておく事が重要であろう。あるいは,大毛池田層の堆積からうかがいしれる未曾有の環境変化(4世紀末の古墳寒冷期後半期のはじまり)に対処する人々の新たな動きを読み取れるかもしれない。世の不穏な空気を察し,マレビトがこの地に画期的な何ものかをもたらしたのかもしれない。あるいは応神記に登場する巨木神話のような,特殊な材の発見と風のように水を切る船,その造船技術がこの湾の風景を一辺させたのであったとしたら・・。

いずれにしろ,ただちに倭王権との直接的な関係だけを見いだし,その地域社会を推量る前に,しなければいけない事が多いように思う。

 

7. 本宮山を頂く風景

東三河地域を流れる「豊川」中・下流域は,本宮山に住まう神を崇める部族社会であった。その伝統は三河一宮「砥鹿神社」に継承されているように思うが,ただ本宮への祈りがどの時点まで遡り得るかはいささか不安である。流域全体を俯瞰しても,古墳時代を通じて核となる場面を見いだす事は難しく,大型前方後円(方)墳の造営はやや散漫でもある。やはり欽明朝以降の馬越長火塚古墳の登場を待つまで,豊川水系を一つの地域社会としてまとめることは難しい。一般的な評価を得ている「穂国」という領域は,この人物の活躍時点以前に遡る事は難しい。しかしその目指すプロジェクトとは何かとなると,いささか心もとない。「穂」とは本来,郡的規模を規範とする広がりであり,おそらく以下の菟足神社から望む範囲を原点とすると考えたいと思う。

宝飯郡小坂井町にある式内社菟足神社を巡る周辺地域は,台地部縁端の安定した基盤と台地端部から湧き出る「泉」を活路として,人々が集まり縄文晩期以来の伝統的集落景観の活発な動きが認められる。そしてその低地部を含めて豊かな地域社会を形作っていたことは容易に推察できる。程よい台地と程よい水,温暖な気候に誘われて,ゆっくりとしたまとまりが弥生時代から古墳時代にかけて育まれて行ったものと思われる。そこには強烈な地域性・個性を生み出す環境要因は見いだしにくく,土器様式を概観しても同様であると見て良い。総じて歩いて1時間程度のエリアである5・6km範囲を単位とする複数のまとまりが,それぞれ継続されていく流域ではないかと考える。

 

考古学研究会第14回東海例会「東海における古墳時代祭祀・信仰の諸問題」

赤塚次郎 発表要旨より,2010-02-06 於:三重大学

狗奴国の幻影を求めて

水曜日, 8月 3rd, 2011

はじめに

 

東西の民族的とも言える境界線が存在する。

早くは宮本常一が指摘し、大林太良や網野喜彦らが提示したものである。そこには日本列島中央部の東海を境にした東西の文化的な差違も含まれていた。そしてその違いは、生態学的な立場に帰結できるようでもある。ともあれ風土性ということであれば、植生など環境・気候の違いへと広がる。こうした数千年以上にわたる東西の違いは、現在の我々の土地観にも受け継がれているように思われる。ここでは歴史を観じる視座をこのあたりに置くことから出発したい。

二・三世紀の列島中央部においてすら、決して均一的・等質的な文化が存在したわけではない。近年の考古学成果はこれらの点を明確に伝えはじめている。

ここではその結節点ともいえる伊勢湾沿岸部に去来した、一つの部族的な大集団を描いてみることにしたい。それが邪馬台国に反旗を翻した幻の王国(狗奴國)の姿であったのかを断定する手段を持ちえないが、有力な候補地である点は動かないものと思っている。

 

土器様式が描く郡的規模

 

二・三世紀の伊勢湾沿岸部の土器様式を概観すると、従前の想定に反して多様なまとまりが存在することがわかってきた。そのまとまりを大きく捉え直すと、旧郡を複数まとめたほどの地理的範囲が浮き上がってくる。それはかつて都出比呂志が通婚圏を想定した「郡的規模」に相当する。ここでの重要な点は、こうした地理的な生活感覚範囲は、時代を超えてつながり、大きく変動することは少ない。ここではこうした不動の地理的・環境的な範囲である郡的規模を基本単位として、地域社会を考えていきたい。

さて、郡的規模のまとまりはわかっている範囲で伊勢湾沿岸部に数十存在する。基本的に土器様式の最小単位をこの規模に設定することが必要と思っている。そしてそこにはそれぞれに土器様式が存在すると想定しているが、未だその様式設定ができない地域も多い。今後の研究に期待したい所である。さて我々は、一世紀前後の尾張低地部に存在する土器様式を「山中様式」と呼んでいる。その後半期には西三河には川原上層Ⅱ式が、東三河南部には寄道式、西遠江には伊場式といった様式が併存し、加えて美濃中部や北伊勢地域にも独自の様式が存在することがわかってきている。東海といってもその中身は多様な地域社会が織りなす集合体でもある。

 

SK七十三様式の登場

 

ところがこうした状況に、一つの転機が訪れる。二世紀前半、尾張低地部に登場した廻間様式の誕生である。S字甕や小型精製土器群などに特色が見られる。一宮市八王子遺跡のSK七十三から出土した一括資料がそのはじまりを教えてくれるものである。そして重要な点は廻間様式の誕生以後、伊勢湾沿岸部の各土器様式はおおむね廻間様式を模倣する形で、大きく変化を遂げる。実はその前兆は山中様式の後半期(山中Ⅱ式)にすでに認められる。こうして伊勢・志摩・美濃・三河・西遠江、さらには近江地域にまで広く、土器の形に郡的規模単位で、模倣と相互置換が繰り返される。そしてやがて廻間様式に代表される多様な有段口縁甕と有段高杯、加飾性を保持した壺類、そして精製土器群といった器種構成が確立する。

 

泉の儀式

 

一宮市八王子遺跡SK七十三出土の一括資料をもって古墳時代のはじまりと考えている。

発見された地区から大変興味深い遺構群が見つかっており、その風景を復原して見ることにしたい。

人々が日々の暮しを送る集落とはやや離れた場所に、巨大な建物が建っている。おおむね幅十メートルほどで四面に庇をもつ寄棟の大型建物が一棟だけ存在する。そしてその周囲には何も存在しない空間が広がり、南北百メートル東西五十メートルの大きさをもつ。ちょうど学校の校庭ほどの大きさの空間の真ん中に、大型建物が一つだけ存在する。そんな風景であったと思われる。そしてその南に面した場所には窪地があり、その縁に、幅五・六メートルほどの水路が流れていた。また岸には径五メートルほどの大きな泉(井泉)が存在する。昏々と湧き上がる美しい水は、南側の堰から水路に流れ落ちる。調査では泉の周辺から大量の土器や木製品・銅鏃や玉類が出土した。SK七十三出土土器は、中央の大型建物周辺で一括投棄された土器群である。この不思議な空間で執り行われた儀式に使用された品物であることは想像に難くない。台付甕にはススが付着しており、実際に使用されたことがわかる。一方で泉の周辺から出土した大量の土器にはこうした痕跡がほとんど見られない。使用された甕が存在しないのだ。中型壺や小型品が多数を占める。大変作りの良い中・小型の壺や高杯が主体であり、木製品には槽や剣形などが見られる。泉の土器群とSK七十三出土品とは異なる儀式内容が読み取れる。さらに後者は廻間Ⅰ式初頭段階の極めて限定した時期幅をもつのに較べて、前者の泉の土器は今少し幅をもった遺物群(廻間Ⅰ式前半期)でもある。いずれにしろこの生活空間の匂いがしない場所で、いったいどのような人々が集まり、何を執り行ったのであろうか。

 

鳥の人面文

 

この空域ではさらに興味深い品物が発見されている。大型建物の西南に存在した土器処置場としてのSK七十三近くで、竪穴住居状の施設が見つかっている。その中からL字状の石杵が出土した。また、谷をはさんでその南側からも石杵と、内部に水銀朱が付着した片口鉢が見つかっている。一方、泉の周辺では、鏡を模した小型の土製品、水路の周辺では人面文が描かれた鳥形木製品などが出土している。神仙思想を彷彿させる朱の道具類、最古の鏡形土製品。そして鳥を形どった人面文の存在。

人面文は設楽博己の研究を契機に、東海地域の一つの風俗として認識できるまでになったきた。天野暢保が強調するように形の決まった「人面文」として象徴化したデザイン性に意味を持たせることが重要と考えたい。その最古の資料が八王子遺跡から出土した鳥の人面文である。本来が板状のものに刻まれた人面文を鳥形に加工したものと考えることができる。

ここで執り行われた儀式には、東海地域を代表する文物や道具が用いられ、伝統的な風習を高度にデザイン化した内容にまで昇華したものであったに違いない。加えて大陸文化の片鱗すら看守することができる。

 

萩原の里

 

ところで一宮八王子遺跡の謎解きには、濃尾平野の地形的な景観とこれを取り巻く遺跡群の理解が不可欠である。図四に示したように八王子遺跡は萩原遺跡群と呼ぶ全長三・四キロメートル、幅〇・六キロメートルに及ぶ巨大な遺跡群内に位置しており、その最北端の遺跡である。複数の河川が複雑に絡みあい、その微高地上に遺跡が点在する。この地は犬山扇状地の扇端部付近に位置し、周囲には無数の湧水点が存在した。扇状地の伏流水があふれ出る豊かな場所でもある。ところで萩原遺跡群は弥生時代前期から集落が点在しはじめ、中期になると中央部の二タ子遺跡を中心にまとまり、後期から古墳時代にかけては、その南北に集落域が拡大するような傾向が読み取れる。最南端には、後の「中島郡」の中心的な場所になる中島遺跡が所在し、北辺部には後期の標識遺跡である山中遺跡が所在する。八王子遺跡の長方形区画は、こうした地理的環境を背景に、弥生時代に脈々と受け継がれてきた萩原の里の最北端に出現した。

 

巨大なイベント会場

 

大型建物周辺から出土した遺物群を観察する限り、一過性の単発的な儀式場であった可能性が高いことになる。こうした大型建物と泉を伴う一過性の場の設定は、弥生時代には見られないものである。そしてそこに用いられた様々な道具立ては、最古のS字甕や人面文、小型の精製土器群、模造品など古墳時代を読み解く重要な道具であった。その多くがこの段階で新たに発明・採用されたものである。別の見方をすれば東海的な仕様が定まったとでも言えようか。この特別な儀式に参列した人々は、おそらく濃尾平野の湿原の民のみならず、伊勢の海を生業とした多くの人々でもあったに違いない。したがって伊勢湾沿岸部の各部族の代表が参集したイベント会場の姿を想定したい。そこで執り行われた儀式は、伝統的な風習に則っとり部族の繁栄と、伊勢の海と湿原の豊かな恵みを祈ったことであろう。そしてこの共同性を実現するための力強いリーダーが選び出されたに違いない。大部族長の選出である。今まさに、群的規模をはるかに越えた地域的結合体に変貌しようとしていた。それが八王子遺跡と考えたい。

 

雲出の砂つぶ

 

八王子遺跡で採用された新しい道具。それはいままでの伝統的な煮沸具・台付甕の常識を覆すものであった。本来、S字甕の祖形は、伊勢中央部を流れる雲出川流域の伝統的な様式の中で育まれたものである。しかしそこからS字甕への進化には、台付甕製作技法の画期が存在する。台部の製作や補充技法、独特なハケメなどなど。そして最も重要な点は軽量薄甕への志向性である。そしてさらに混和材としてある特定の砂粒を使うという仕様。つまりS字甕製作には雲出の砂粒を使わねばならないという強い規制の確立である。これは風習というよりも宗教性に近いかもしれない。では何故雲出の砂粒なのか。おそらくその誕生にまつわる神話にあるように思われる。その中身は計り知れないが、ただ、松阪市片部貝蔵遺跡の複雑に入組んだ河道と堰の組合せの中に、砂粒採集の儀式場を想定することも可能と考えている。いずれにしろ二世紀から三世紀にかけて伊勢湾沿岸部に流行したS字甕は、その製作に特定の砂粒を混ぜるという共同性が確かに存在する。そしてその風習が最も強く働く時期、それがS字甕が濃尾平野から伊勢沿岸部の各集落内に広く採用される段階であり、かつ東海系が動き出す瞬間でもある。伊勢湾を取り巻く人々の間に、同じ道具を共有し、その神話を共有するという伝統性が創造された。

 

東海系のトレース

 

暦年代では西暦二百年前後、東海系文化が主に東海・東山・北陸道に向かって拡散する。第一次拡散期と呼んだ現象である。すでにこの段階では八王子遺跡で想像した部族間の共同意識は、後の「東海」という地域に拡大していった。より強い部族意識の高揚が、それまでの弥生時代以来の伝統的な地域社会の枠組みすら変容させようとしていた。具体的には伊勢湾沿岸部の集落動向から容易に読み取ることができる。すなわち弥生中期・後期以来の集落の多くがこの段階で消失していくのである。三重県松阪市の阿形遺跡や草山遺跡、愛知県清洲町の朝日遺跡など枚挙に暇が無い。新たな枠組みを模索し、具体化していったものと推測したい。こうした段階に、東海系文化が古くからの伝統的な交易ルートに導かれながら、東の国々をめざし旅立って行く。彼の地では東海的な風俗や風習に影響されながら、やがて自らの伝統的な地域社会を改変する力強い動きとなって表面化していく。その動きは、比田井克仁や西川修一らの研究成果から、一様ではなく、関東地域での群的規模単位でかなりの偏差が存在したと考えたい。結果として東海系文化は、その東国の変動に参画していくことになる。

 

前方後方墳

 

二・三世紀は地域型墳丘墓の時代と考える。各地には弥生時代以来、独自に発展した墳丘墓が存在することがわかってきている。円形を基調とする区画墓は、宮崎平野や大阪湾沿岸部、さらには長野県の善光寺平や群馬県南西部などで確認されている。それぞれの円形志向には地域独自の形や造営理念が存在するようでもある。山陰地域には四隅突出型墳丘墓が見られ、北近畿には台状墓と呼ばれる丘陵を巧みに利用した独自の墳丘墓が存在する。一方で、方形を基調とする墳丘墓の存在は列島内に多く認められる。特に東日本には弥生時代後期以降になると、広く方形周溝型が一般化するが、中にはこうした区画墓を採用しない地域も存在する点は留意したい。

さて、前方後方形は弥生中期末頃に方形周溝の一辺のほぼ中央部に陸橋部をもつものが見られるようになる(図五のB1型)。その後に中央部に存在する陸橋部付近が拡張し、周溝の形に変化が見えはじめる(B2・B3型)。前方部への進化がはじまる。伊勢湾沿岸部である東海地域ではこうした前方後方形の墳丘墓が各集落内の墓域にほぼ例外なく普遍化し、やがて前方後方墳(C型)へと大型化していくことがわかってきた。その形態は後方部はほぼ正方形を志向し、狭く引き締まったくびれ部から大きく拡張する前方部が取りつく。こうした東海型の前方後方形の墳墓が、東海系のトレースを契機に列島規模に普遍化したと考えたい。

 

悪神の國々

 

東海的な文物や風習が二・三世紀に強く表面化する。そして三世紀初頭、東海的な文化が一つの風潮として列島各地に共鳴することになった。特に東海以東の國々にはこれまでの古いつながりを基調にして浸透していった。東日本を代表する墳丘墓としての、前方後方墳の普遍化はその象徴的なものである。独自の風習をもち、しかもそこにS字甕で確認した強い神話が作られた。こうした邪馬台国時代の伊勢湾沿岸部のかたまりは、まさに列島西部の倭人から見れば、風俗性が異なる「悪神」たちが住まう異境の國となろう。しかもそこには広大な東日本社会が背後に控えているという恐怖感が存在したに違いない。狗奴國の幻影を、まずはこうした民族性の差に近い、伊勢湾沿岸部の独自な風俗性に求めてみたい。(赤塚次郎)

『東海の弥生フロンティア』平成17年春期特別展 弥生文化博物館より2005

参考文献

大林太良「日本の文化領域」『風土と文化』日本民族文化大系一小学館一九八六

都出比呂志『日本農耕社会の成立過程』岩波書店一九八九

吉田晶『卑弥呼の時代』新日本新書一九九五

西川修一「東・北関東と南関東」『古代探叢』Ⅳ 早稲田大学出版部一九九五

網野喜彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫一九九八

樋上昇編『八王子遺跡』愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第九二集二〇〇一

赤塚次郎「男王、卑弥呼と素より和せず」『三国志がみた倭人たち』山川出版社二〇〇一

比田井克仁『古墳出現期の土器交流とその原理』雄山閣二〇〇四

設楽博己「線刻人面土器とその周辺」『国立歴史民俗博物館研究報告』第25集一九九〇

金森康明・天野暢保「愛知県神門遺跡の人面文土器について」『考古学フォーラム』一〇 一九九八

『弥生水都二千年』一宮市博物館企画展図録二〇〇四

コロコロ石と石作の民

土曜日, 7月 23rd, 2011

コロコロ石と石作(いしづくり)の民
飛騨川が木曽川と出会う場面が岐阜県可児市・美濃加茂市川合界隈,そこから愛知県犬山市内田・岐阜県各務原市鵜沼を通って,木曽川の中洲でもある各務原市川島までの中流域をゆったりと下ると,おおよそ20キロメートルの旅になる。その流域はいくつもの荒々しい「瀬」と「淵」が織りなすの場面でもあり,まさに変化にとんだ美しい「ライン下り」の風景が続くのである。そして劇的な空間に至る。それは木曽の流れが広大な平野部に流れ落ちる場所,私はこの平野部と出会う流域を「古代沼(つぬ)の里」と呼びたいと思っている。そこには幾筋かの小河川と台地から湧き出た泉が織りなす複雑な湿地が存在したに違いない。その複雑な「河」の流れは,時に仲間を隔てることもあるが,またモノの流れを繋げる画期的な役割をもっていた。木曽の流れは「沼の里」を起点にして広大な平野部に繋がっていたのである。

ところで地域には特徴的な素材が存在する。例えば坂祝から犬山にかけてよく見る赤色をした堅い岩ハダ,チャートの岩帯だ。実は周囲の山々もこの岩で構成されている。この堅く赤い素材を弥生人たちは自分たちの狩猟の道具として活用していた。五角形状の独特のカタチをもったヤジリの素材として使っていたのだ。また沼の里である犬山市に存在する最古の大型墳,東之宮古墳にはやはり堅いゴツゴツしたこのチャートの「赤岩」を選択して,お墓の表面に丁寧にきちんと並べ「葺石」として使っていた。そこには周囲の岩山景観との一体感が見事に演出されており,地域を一体化させるグローバルなセンスが見て取れるのであり,古代人の叡智と習俗が造り出した造形と言えよう。そしてさらに面白いのはその中に木曽川の「白い石」河原石が混じっていることです。赤岩に白ゴマのように白石が点々と混ざるのです。不思議ですね,標高140メートルの高所には河原石はありませんので,古代人がわざわざ木曽の河原から運び上げたものです。すごいです。

では何故そんな事をしたのでしょうか・・。古墳時代の木曽川中流域のお墓の造り方に,面白い共通点があります。それはまずもって「お墓の印象」です。お墓の大きさやカタチより見た目。コロコロした丸い大きな河原石をふんだんに使って,見た事もない奇妙な石のヤマとその中に石の部屋を築きあげているのです。おおきな白い河原石を巧みに組み合わせる,他の地域ではあまり見かけない風景です。中に入ると河原石がもつ白い色と丸みの調和が不思議な暖かさを醸し出してくれます。丸くて組合せにくい素材だが,今にも崩れ落ちそうで崩れない独特の工法を彼らはあみ出し,その技術を共有したのです。

可児市次郎右衛塚1号墳はその典型例であり,現在は史跡整備で復元されていますので,古代の息吹をそのまま感じることができる貴重な場面になってます。また犬山から可児にかけての丘陵に分布する,ちょっと軟らかい白石(凝灰岩)を加工して石の棺を作り出しました。河原石・凝灰岩といった地域の素材を巧みに利用した,名もなき職人たちの技が残る。古代「石作(いしづくり)」という名の集団が活躍し,その面影が中流域の各所に石作神社が奉られている。その神はタケマリネを祖と仰ぎ,尾張連(おわりむらじ)氏との深い関係が指摘されています。

さて,白い河原石。そうですね神社などで清浄な場面を作るときに必須の素材です。そこに古代人もこだわったのかもしれません。東之宮古墳の表面にゴマのように埋込まれた白い河原石,白一色の空間を造り上げた石の部屋という組物などには流域の民が長い間培ってきた,木曽の流れに対する畏敬の念が埋込まれているのではないかと思ってます。地域に残った貴重な文化遺産が,現在の私たちが忘れていた経済性では満たされない大切な何かを思い出させてくれます。

中日新聞2010-08-20(金)夕刊 掲載記事より

古代時空間アルバム

金曜日, 7月 22nd, 2011

古代時空間アルバム
郷土の埋もれた文化遺産。愛知県には驚くような不思議なモノたちや,謎に満ちた驚異の遺跡がまだまだ眠っている。一見,現代の生活や街並とまったく無関係だと思うでしょうが,それはちょっと違うかもしれない。古代のモノ・出来事だといって無視するのはもったいない。ひょっとすると,地域力を蘇らせる魔法のアイテムになるかもしれない。したがってまずはご自分でそのモノたちに出会う必要がある。ではどうしたらそうした情報を手に入れることができるか。それがとても簡単なことなのです。

愛知県埋蔵文化財センターのホームページを訪ねていただくだけで良い。そこには,ここだけしかない「古代時空間アルバム」というコンテンツが用意されています。遺跡から出土した器や発掘風景などの写真が約20000点,他の地域を圧して余ある物量で,しかも無料で体験できる。いつでもどこでもどんなデバイスでも,インターネットにつながっていればOK。お手軽ですので,一度ぜひお試しいただきたい。さらに検索された項目から,次々に遺跡や遺物にたどり着くことができます。ひょっとして驚きの出会いが待っているかもしれません。
さて具体的にその方法を見てみましょう。まずwww.maibun.com/topへログイン。

すると,愛知県埋蔵文化財センターのホームページにアクセスできます。そのトップ画面の左上に「考古学アーカイヴ」という項目がありその下に「遺跡アルバム」というボタンがあります。これをクリックしていただくと,検索画面になります。「遺跡名」と「内容」という項目がありますので,何でもいいのですが,例えば「内容」というボックスに「円窓」という言葉を入れてみましょう。すると・・・画像の中に検索項目と関係しそうなモノたちが選択されます。奇妙な壺やその仲間たちがたくさん出てきますね,壺の中央に大きな穴があいている。

実はこの壺は愛知県清須市に存在する「朝日遺跡」という県内最大級の弥生遺跡から見つかる謎の土器です。面白ことにこの壺は朝日遺跡以外にはほとんど見つかっていない。また土器を焼く前に大きな穴を開ける理由も,その用途もまったくわからない・・ヘンテコリンな器なのです。しかし見方を変えると,ここにしかない優れたデザインでもある。であるならばこのカタチを街並アート・街路灯にして,街を一気に亜空間にしてしまったらどうだろうか・・。
遺跡からの情報は,他に類例を見ない特徴的かつ重要な地域共有の財となるモノです。そして一番の特徴は,直ちにその地域の風土にあったデザインに変身できるという優れた特徴をもっている点です。何たって,そこから発見されたのですから・・。遺跡アルバムに掲載されたモノたちは,未来への地域社会の歴史・文化の礎を築き,豊かで楽しく個性的な地域を作っていく上で重要な役割を担っていくものと確信しております。

地域独自の取り組みが求められている現代,私たちが提供する時空間アルバムを活用する時が近づいていると思っています。この地域にしかない優れたデザイン,古代の叡智を観じる場面を発掘資料から街々に,現代に蘇らせるのです。

『月刊なごや』no.329 2010-02より

甲斐の国*事始め

日曜日, 7月 10th, 2011

■はじめに

甲斐盆地にS字甕を代表とする東海系文化が到達するのは、米倉山B遺跡段階からと考えられている。その後、東海系土器およびその文化は急速に甲斐盆地の地域社会に受け入れられ、定着する。そして新たな土器様式とその文化を誕生させることになった(小林1993)。米倉山B遺跡段階以降に誕生したあらたな甲斐の土器様式、そこに見られる土器の形とそのデザインは、おおむね濃尾平野土器様式であるⅡ式前半期を基本形としている点は明らかである。その頃の濃尾平野の中心的な場所は、愛知県一宮市南部と想定している。そこで、web地図上で甲斐東南部の曽根丘陵までのルート検索すると、徒歩で265km・55時間になる。時速4.8kmほどで、一日6〜7時間、30kmを目安とすると9日で到達する。ルートは、一宮市から濃尾平野を横断し、内津峠を通って、東濃に入り、恵那・中津川から木曽川谷を遡る。諏訪・茅野を通って、甲州街道を韮崎から八代郡へという想定である。東海系文化は、今から一八〇〇年ほど前、何を求めてこの地に到達したのだろうか。

■西暦二〇〇年のインパクト

濃尾平野から東海系文化が広域的に拡散する現象が存在する。第1次拡散期としたものである(赤塚1996)。その時期はおおむね廻間Ⅱ式前半期を中心として、主に東日本に広がりをもつことがわかっている。さて、東海系土器参入時期の開始を知る手掛かりは、米倉山B遺跡にある。ここから出土したS字甕によって、遅くても廻間Ⅱ式初段階には甲斐地域に到達していたと考えて良いものと思われる。であるならば、濃尾平野から東方への拡散現象の中では最も初期段階に位置づけることができる。実はこれと同じような現象が今一つ見られる。長野県中野盆地への広がりである。木曽谷を遡った東海系文化の担い手たちは諏訪で分岐して、一方は善光寺平を目指し、一方は甲斐を目指すことになる。その年代はAMS年代測定法や年輪年代法を考慮した新暦年代では、西暦二〇〇年前後と想定している(赤塚2006a)。それはおおむね列島内のどこかに存在したであろう、女王が都とする「邪馬台国」、そしてその女王卑弥呼が多くの國々から共立された時期に相当する。時代は弥生時代から次なる古墳時代へ確実に動き出そうとしている。東日本の地域社会に多大な影響を与えた東海系文化が、いかなる要因で広域域的な動きを見せはじまるのかは興味深い問題だ。いずれにしろ、結果的に東海系文化の担い手たちは中部・関東などの地域社会の変革に参画することになる。ただ、地域社会は一様にこの東海系文化を受け止めたのではない、そこには多様なあり方が見られる。当然のことであるが、その受容を拒絶した地域社会もあった。

■地域社会の変動

東海系文化の参入とともに甲斐地域では新しい土器様式が誕生し、集落遺跡をも巻き込み地域社会の風景が激変していくようである。それは竪穴建物の形(方形プラン化)や立地場所の変化を伴なることが指摘されている(中山1993)。ただ、東海系文化の担い手たちが、そうした激変の主導権を握っていたかは別問題だ。むしろ土器様式一つを見ても、デザインの多くは甲斐地域での型式の置換と融合、その解釈にあり(小林1998a)、したがって地域社会の風習の枠内での主体的な変化であったと、評価すべきものである。しかし最も重要な点は、この激変がそれ以前の甲斐盆地での地域性、小地域単位での風俗性の差違を払拭させるような力強い動きであったと推測できることである。こうした新しい時代の方向性をいち早く受け止め、伝統的地域社会を変革し、新しい枠組みを志向し、地域社会をリードしたまとまりが、東南部の曽根丘陵に割拠した集団であったことは明らかである。

■三世紀の甲斐、そして墳丘墓

甲府市(旧中道町)の上の平遺跡。標高330mの台地上に展開する120基以上の「低墳墓」が調査されている。その内部は4つの群により構成されており、より広範囲な集団による経営が想定されている(中山1989)。おおむね小林甲斐弥生終末〜Ⅰ期(小林1993)を中心とした造営であり、ここでの新暦年代をあてると二世紀後半から三世紀前半期となり、まさに邪馬台国の時代である。前方後方形の墳墓が確認されている上野遺跡・姥山遺跡・榎田遺跡・坂井南遺跡・下西畑遺跡などの状況からは、おおむねその出現が小林甲斐Ⅱ期(廻間Ⅱ式併行)を中心としていることが判明しており、4世紀にかけて存続するようである(小林1998b)。前方後方形は、それぞれの墓域内に含まれる形で点在する事が多いようだ。一定の階層クラスが、全てこうした前方後方形の墳墓を造営した形跡は認められない。ただ、大きさとして20m以上、15m・10mという単位が存在し、その規模が地域の「大きさ」として定着している点は留意したい。この延長上に甲斐盆地の初期の前方後方墳である小平沢古墳45mが位置づけられることにかわりはない。その造営は、出土したS字甕から三世紀後半期に位置づけられる。なお主墳の大きさは20mクラスで、上野遺跡のB1型とほぼ同じクラスの規模を有することになる。つまりこの段階では、甲斐地域の「王」の大きさが習俗的に決められており、その枠内で墳墓の規模と形を造り上げていたと評価したい。したがって、そこに畿内の王権が直接的に関与した形跡はほとんど存在しないと考えたい。三世紀前半期から中頃には、甲斐盆地に新しい文化とそのシステム・枠組みを作り上げようとした「曽根」の王とその仲間たちが手がけようとした地域開発が想定できる。それまでの多様な甲斐盆地の習俗をまとめ、より広範囲な地域社会との情報を受け止める受け皿が用意されようとしていた。

■甲斐銚子塚古墳の造営

一六九mという破格の大きさをもつ甲斐銚子塚古墳。その存在は東日本を代表する前期古墳でもある。出土したS字甕(森原・森屋2005)や副葬品などから造営時期が甲斐Ⅳ期、松河戸Ⅰ式前半期・布留中段階新相併行期に置く事が可能であろう。するとここでの新暦年代から、銚子塚古墳の造営時期を四世紀前半期の中に位置づけたい。またそれは、濃尾平野での副葬品と土器編年の関係を模式した基本軸からも想定できる。具体的には標識資料とした親ヶ谷古墳と甲斐銚子塚古墳の副葬品を比較すれば、一段階新しい様相を示す可能性が高いものである。したがって先行するとされる天神山古墳や大丸山古墳の存在を考慮すると、甲斐盆地に大型の前方後円墳が造営されはじめるのが、おおむね松河戸Ⅰ式段階からであるということになる。すると彼らが活躍した時代はまさに、行燈山古墳(現崇神陵)・渋谷向山古墳(現景行陵)を中心とした時期であり、「おおやまと」から佐紀古墳群造営に至る過程でもある(白石二〇〇〇)。ここではおおむね甲斐の大型前方後円墳の造営は、佐紀古墳群の本格的な造営がはじまる過程で、曽根丘陵を中心とした墳墓の造営は、ほぼ終焉すると考えておきたい。一六九mの大きさは「地域が所有する大きさ」ではない。そこには何らかの王権との関係や地域社会での習俗性をまとめあげた力強い指導者の姿が予見できるのだろう。もちろんその背景には上の平遺跡を嚆矢とする曽根丘陵の百年以上の長い歴史と、東海系文化を受け入れ、それを契機に伝統・風俗性の統一を図った王とその仲間たちの存在があり、その延長上に位置づけることが重要だと考えたい。

■古墳文化共鳴論からの視点

二世紀から四世紀の古墳時代早期・前期の古墳文化。その出発を邪馬台国と狗奴国との抗争を乗り越えた新たな倭王権の誕生と位置づけ、その王権が発する情報への共鳴現象が前方後円(後方)墳の造営であると考える。つまり倭王権への参画とその模倣の証が古墳文化の多様性を造り上げている(赤塚2006b)。こうした視点に立脚すると、甲斐盆地での大型前方後円墳の造営とは、甲斐盆地に存在した多様な弥生時代以来の部族社会を止揚し、それを新たに一つの領域として位置づけようとした点にあるのではなかろうか。そしてそれを実現するために、東海系文化を積極的に利用して、その風俗性を一気にまとめようと動いた。これを実現したのが「曽根」の王とその仲間たちであったと考えたい。曽根丘陵を中心とした集団の不断の歴史がそこにある。三世紀からの甲斐の王権は「おおやまと」から佐紀古墳群への大きな動き中で、倭王権中枢部に存在する複数の揺れ動く集団を利用して、この時期では東日本最大規模の大型前方後円墳を造営するに至ることになる。そこには広域的なネットワークと情報を巧みに整理し、地域社会を取りまとめた、カリスマ的な人物の存在が推測できる。まさに甲斐という地域社会の誕生であり、以後この地域観・風俗性は不動な一帯性として地域社会に定着し継続することになる。そして絶えず揺れ動く畿内での倭王権の変動とともに、地域を挙げた倭王権への参画は客体化する。伝統的地域社会の習俗性を基礎として、甲斐には新たな枠組みを基本にした平穏な地域社会がよみがえることになる。

参考文献

中山誠二 1989「中部・関東地方の弥生集団墓の構成について」『山梨考古学論集』「 山梨県考古学協会

小林健二 1993「山梨県域の土器様相」『東日本における古墳出現過程の再検討』日本考古学協会 新潟大会

中山誠二 1993「山梨県域における集落・墳墓の概要」『東日本における古墳出現過程の再検討』日本考古学協会 新潟大会

赤塚次郎 1996「前方後方墳の定着」『考古学研究』第43巻第2号

小林健二 1998a「山梨県出土の東海系土器」『山梨県考古学協会誌』第10号

小林健二 1998b「甲斐における古式土師器の成立」『専修考古学』第7号白石太一郎 2000『古墳の語る古代史』岩波現代文庫

森原明廣・森屋文子 2005『国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳』山梨県教育委員会

赤塚次郎 2006a「東海系土器と東日本の墳丘墓」『古式土師器の年代学』(財)大阪府文化財センター

赤塚次郎 2006b「古墳文化共鳴の風土」『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要』7

 

2006-10-29

(甲斐風土記の丘研修センター 講演会「甲斐銚子塚古墳と東海系文化」より赤塚発表資料)

 

禽獣の鏡を鋳だす王

金曜日, 6月 24th, 2011

禽獣(きんじゅう)の鏡を鋳だす王 ー前編ー

はじめに

国宝犬山城から東側を望む,するとそこには各務原から続く美しい山並みが連なり,やがて木曽川をはさんで白山平(はくさんびら)に到達する。山麓には瑞泉寺の塔頭群とあい重なって,現在の成田山名古屋別院「大聖寺」が見えるが,その標高143メートルの白山平山頂には,国史跡「東之宮古墳」が存在し,古代邇波(にわ)を象徴する大王墓が今でも完全な形で残っているのである。この東之宮古墳は日本列島の古墳文化を考える上で,重要な学問的な位置を占める古墳として評価されているのであるが,特に興味深い点は,今回取り扱う奇妙な鏡が出土している事である。鏡は,王が眠る竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)からは11面の鏡が発見されたが,その内の4面が前代未聞。それまで誰も見た事がない,驚くべき異質な鏡であった。我々はその鏡を「人物禽獣文(じんぶつきんじゅうもん)鏡」と呼んでいる。東之宮古墳で見つかった11面の鏡は,最新の研究成果からは,中国鏡である斜縁神獣鏡1面,中国製か日本製か議論のわかれる三角縁神獣鏡が4面,その他の日本製である倭鏡が6面という構成になる。そしてその倭鏡6面の内,実に4面が人物禽獣文鏡という特殊な鏡群であり,東之宮古墳の副葬品を特徴づけているのである。今回は,この奇妙きてれつな鏡にまつわる物語を,整理しておくことにしたい。

人か獣か,はたまた精霊か

人物禽獣文鏡とは,呼んで字のごとくであり,鏡の裏面に鋳だされた文様が,ヒトと禽獣,つまり人のようなモノとトリやケモノのようなモノがめぐる鏡という事である。そこで4面の鏡を一つ一つ注意深く見ていくと,誠に奇妙で「何だろうか」と思うような大変面白い文様があちこちに見えてきて,ほんとうに楽しくなる鏡でもある。ここでその特徴的な文様を,鏡の中から選び出してみることにしょう。

まず「ヒト」であるが,人と呼ぶにはあまりにも奇妙なカタチをしたモノもあるが,とりあえず「ヒトたち」がいる。多くは両手をあげて「万歳」しているようにも見えてくる。面白いのがこのヒトのカタチが連続して配置される場合もあり,言ってみれば一つの文様になっているようだ。次に「ケモノ」であるが,これまた何ともいえない不思議なカタチをしている。ヒトとケモノが区別がつかないものもある。どうやら基本形はS字状の芋虫のようなカタチで,顔や体,手足といった明瞭な表現はほとんどなく,変幻自在な芋虫文と呼んでもよいかもしれない。次に「魚」だ,これは比較的わかりやすい表現で,尻尾が大きく,魚が元気に跳ねているような表現も見られる。このように人物禽獣文鏡の主文様はヒトとケモノ,加えて魚であるが,これらを組み合わせ,その間を多様な文様で複雑に充填している点が,この鏡群の特徴であり,そこに独特の世界が表現されているといえよう。

では,古代人は何をイメージして,どこで誰が,このような奇妙な文様を鋳だしたのだろうか・・。

最古の倭鏡

日本列島に住まう我々のご先祖が,はじめて鏡を自らの手で作り上げたのは,弥生時代の終わり頃である。大陸からの「鏡」を見よう見まねで作り上げたもので,お手本となった鏡に鋳だされた文様の意味までは,ほとんど意識していなかった。ところが,三世紀の古墳時代になると,古墳の副葬品に鏡が大量に用いられはじめる。倭人は鏡好きな民族だったようで,大陸から数多くの鏡がもたらされた。そして古墳の副葬専用に,オリジナルな日本製の鏡が作られ始めるのであるが,その極初期段階の鏡が,東之宮古墳では6面も含まれているから驚きである。これらは弥生時代の鏡とは大きさや質・デザインが大きく異なり,本格的な倭鏡製品としての第一歩の作品群と位置づけて間違いない。しかも優れた作品が多い。

ところで「古代邇波の里」内で最も古い倭鏡を捜すと,それは大口町余野遺跡群から出土した鏡をあげることができる。現在大口町歴史民俗資料館に展示されているものであり,列島のどこかで女王卑弥呼が登場する時代,まさにその西暦2世紀後半段階のものと考えておきたい。ちなみに余野鏡に鋳だされた文様からは,巫女の鏡であるという評価がある。

東海の鏡

さて東之宮古墳の倭鏡は,いったいどこで製作されたのであろうか。この問題の謎解きに一石を投じているのが,実は人物禽獣文鏡群であるのだ。なぜならば,これと同じ仲間の鏡は,ヤマトや近畿地域にはまったく見つかっていない。日本列島で数多く鏡が出土するヤマト地域ですら,見えてこない鏡である。そこで人物禽獣文鏡と同じ系列の鏡を捜すと,東之宮古墳で4面,他に岐阜県内で2面の合計6面の鏡が見つかる。ただしもう少し似たような鏡は,さらに2面加えることができる。そのうちの1面は,ヒトが描かれた数少ない鏡でもある「狩猟文鏡」にたどり着く。狩猟文鏡とは群馬県高崎市出土として伝わる鏡で,鏡背には槍や弓矢をもち,何やら怪しい踊りを繰り広げる踊り手たちが鋳だされた,摩訶不思議な鏡のことである。

どうやら人物禽獣文鏡とその仲間の鏡は,この地域とその東の国にだけに分布する特殊な鏡である可能性が高いということになる。さて,それは何故なのか・・。そしてそうした不思議な鏡をたくさんもっていた東之宮古墳の王とはいったい何者なのであろうか。(つづく)

 

 

禽獣(きんじゅう)の鏡を鋳だす王 ー後編ー

「棺」中に置かれた鏡

さて,前回までのお話から東之宮古墳の人物禽獣文鏡(じんぶつきんじゅうもんきょう)をまとめてみると,まずこの種の「ヒトとケモノが鋳だされた鏡」は,どこにも分布しない特殊な鏡であるという結論にたどりつく。また日本で本格的に鏡生産がはじまった3世紀ごろの,大変貴重な初期倭鏡でもあった。いずれにしても人物禽獣文鏡という特殊な鏡は,東之宮古墳から多く見つかっているのであるから,彼と深く関わる鏡である事にかわりないようだ。あるいは彼の意思,メッセージがそこに込められた鏡であるといっても過言ではない。実はその決定的な証拠がある。

それは東之宮古墳の竪穴式石槨からは11面の鏡が発見されたと述べたが,その配置から見ると10面と1面の組み合せになる。つまり10面は王が葬られた石槨内ではあるが,その中に安置された木棺の外側にまとめて配置されていた。10面の鏡は棺の外側に置かれていたのである。つまり残る1面だけが,棺の中にあった。その棺の中の唯一の鏡が,三角縁神獣鏡や中国鏡といった一般的に評価の高い大型鏡ではなく,他にどこにも類例がない「人物禽獣文鏡」なのだ。この時代の多くの古墳と比較すると,それは例外的な事例であるといえよう。

東之宮古墳の人物禽獣文鏡はA・B・C・Dと四つの鏡が存在する。棺の中の鏡は人物禽獣文鏡の中で最も古い「A」鏡であった。つまり東之宮古墳の王は,最古の人物禽獣文鏡を自らの棺の中に据え置かせたことになる。他の鏡を排して,禽獣の鏡を死せる手元に置いたのである。おそらく彼が一番大切にしていた鏡であったことは想像に難くない。

東之宮古墳に眠る王の強い意思により,どこにも類例のない不思議な鏡群がこの地で製作された。そして自らの手で鋳だした禽獣の鏡への思いを込めて,棺の中に配置したのである。

「ヒト」表現

人物禽獣文鏡の特徴は,やはり何と行っても奇妙なヒト表現にある。ヒト表現は大きく二つに分類でき,片足をあげて踊るような表現をもつ「ヒトa」とこれまた前代未聞の奇妙な怪人文「ヒトc」。ところで,ヒトaからヒトbが生み出されるのであるが,それがやがて一つの文様となり,最後の禽獣文鏡である四つ目の「D」鏡で,鏡の「単位文」にまで進化する。ヒトabは徐々に小さく簡略化されていき,同時に表現されるヒトが増加する。両手を上げ万歳をしているような表現が基本形のようにも思える。面白いことに第3番目の「C」鏡では,ヒトが踊るような表現を見せ始めている。一方でヒトcは第2番目の「B」鏡だけに見られる特殊な表現といえよう。ただし,五島美術館蔵鏡の中に比較的良く似た鏡が一面だけ存在する。注目したい。

ケモノ表現は三つに分類でき,ケモノaは芋虫状の表現で,やはり簡素化へ向かい,レンズ状文と呼ばれる小さな膨らみ状の表現へと同化する。最も注目したいのがケモノbである。それは第3番目の「C」鏡でしか見られない表現であり,まさに踊るヒト表現と共に動きのある表情を見せている。「C」鏡は,人物禽獣文鏡の傑作と呼んでも過言ではないほど素晴らしい作品である。ケモノcは,くちばしと首を反り返える表現が見てとれるため,ここでは「鳥」表現と考えておきたい。鳥とすればこの鏡群中では唯一の表現となる。

さて,一方でもう一つの表現が「魚」である。これは他の意匠と異なり,新しくなるにつれて簡素化するのではなく,逆に表現が豊かに,大きく表される。あるいは身近で現実的な生き物と,そうではないモノたちとの表現の違いを読み取ることができるかもしれない。

邇波(には)の「はじめの王」

以上,東之宮古墳から出土した不思議な人物禽獣文鏡について見てきた。東之宮古墳の王が眠る棺の中に唯一配置された鏡は,出来の良い中国鏡でも大型の三角縁神獣鏡でもなく,ここにしか存在しない特殊な鏡である「人物禽獣文鏡の最古鏡」であった。その分布やデザインから,ここ邇波の里で独自に製作された特殊な鏡であった可能性が極めて高い。そして鏡に鋳だされたモノたちは,次々に進化し,人物禽獣文鏡第3番目の「C」鏡において,その傑作とも呼べる優れた作品を生み出すまでに至る。動きのあるヒトとケモノ,トリやサカナがうごめく森羅万象。あるいは清流「木曽」河の景色を時空ごと切り取り,鏡の中に封じ込めたものかもしれない。現代,私たちが忘れかけている美しい郷土の風景を,時代を超えて伝えようとしたのだ。するとその意図は,いったい何だったのだろうか。

三世紀から四世紀にかけて,古代邇波の里にはおおむね四代にわたる大王墓が造られた。すなわち東之宮古墳・青塚古墳・坊の塚古墳,そして妙感寺古墳である。それぞれの王や彼をささえた民衆が夢見たモノ,そして未来に伝えなければならない大切なモノがあったはずだ。多くの伝承が消えては生まれ,その歴史の中に彼らのメーセージが息づく。

一枚の不思議な鏡,それは時空を超えて伝えなければならない大切な何かを,私たちに教えてくれているのだと思う。邇波の最初の大王墓「東之宮古墳」は,まだまだ我々の計り知れない謎に包まれた存在でもある。その事に気づく瞬間,その時と場面を静かにまっているのかもしれない。

「史と詩の町から」vol.11-4&12-1 より

第1回 オープンミュージアム・ニワ里セミナー

水曜日, 12月 22nd, 2010

第1回 オープンミュージアム・ニワ里セミナー
「オープンミュージアム構想と文化遺産カード」

日時:平成23年1月29日(土) 午後1時半から4時
会場:青塚古墳ガイダンス施設 講座室
パネルディスカッション「オープンミュージアム構想と文化遺産カード」
パネラー:中島和哉・和氣清章・藤波啓容・岡安光彦・内田恭司・坂本範基・森下章司
コーディネーター:赤塚次郎

参加者:30名(事前予約) 無料
申込先:http://niwasato.net/info.html(お問合せ欄に参加希望を明記)

●文化遺産カードという仕組みから見えてくる,オープンミュージアムの新たな視点とは何か
●東之宮古墳史跡整備の中で検討されている「史跡ARシステム」について